
第49代天皇『光仁天皇陵(田原東陵)』@奈良市田原
奈良市の田原の里にある、第49代天皇『光仁天皇陵(田原東陵)』へお詣りしてきました。周囲を田んぼに囲まれた小さな円丘ですが、稲が実る時期には本当に美しい陵です。幻想的な風景に感動しました!
志貴皇子の息子で、62歳の高齢で即位
光仁天皇(こうにんてんのう)(Wikipedia)は、日本の第49代天皇です。名前は「白壁王」といい、天智天皇の第7皇子であり、万葉歌人として名高い「施基親王(志貴皇子)」の第6子として、709年に生まれました。
白壁王の当時の天皇家は、壬申の乱の際に天智天皇の息子・大友皇子が、天智天皇の弟・大海人皇子(天武天皇)に敗れたため、皇位は天智天皇系によって独占されていました。しかし、770年、称徳天皇が後継者を指名せずに没したため、藤原百川・永手らは、白壁王を擁立。長らく途絶えていた天智天皇系の皇統が復活しました。
即位した際には、光仁天皇として即位した際には、年齢はすでに62歳。激しい皇位争いによって、皇位継承のライバルたちが粛清されていく中で、酒をあおり凡庸を装うことで難を逃れてきたそうです。
即位後、井上内親王を皇后、他戸親王を皇太子としましたが、772年、井上内親王が呪詛を行ったと密告があり、皇后を廃されます。続いて皇太子の他戸親王も廃され、その代わりに皇太子となったのが山部親王(後の桓武天皇)でした。773年には、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡に幽閉され、直後に変死してしまいます。これによって天武天皇の皇統は完全に絶えたとともに、井上内親王の怨霊に苦しめられ続け、それから10年もしない間に崩御してしまいます。
また、井上内親王の変死後、光仁天皇の即位に尽力した藤原蔵下麻呂が急死したため、祟りを鎮めるために勅願を発したのが「秋篠寺(紹介記事)」。また、毎年1月23日には、奈良・大安寺で笹酒をあおって長寿を全うした光仁天皇にちなんで、無病息災を祈る「光仁会(癌封じ笹酒祭り)」(紹介記事)が行われています。
「鎮守の森」風の陵は美しい姿でした
そんな光仁天皇の御陵『光仁天皇陵(田原東陵)』は、奈良市の東部の、茶畑と田園が美しく広がる田原の里にあります。古事記の編纂を行った「太安萬侶墓」、また父であり、死後に春日宮天皇の名を贈られた「志貴皇子」の御陵などもすぐ近くになります。
この田原東陵は、他の多くの天皇陵のように、石段の先の高台にあるのではなく、周囲を田んぼに囲まれた平地にあります。高さが無い分だけ通常の古墳に近く、天皇陵としての格式にはやや劣る感もありますが、稲穂が実る時期には本当に美しい姿が見られました。
遠目には、村の「鎮守の森」風に見えたりしますが、五穀豊穣を護ってくれているような、どこか幻想的な雰囲気です。夏から秋限定かもしれませんが、今まで見てきた御陵の中で最も美しいもののひとつに挙げられるでしょう。
奈良市の東部の田原の里にある『光仁天皇陵(田原東陵)』。駐車場からの眺めです。田んぼの真中にぽつりとあるので、御陵らしくありませんが、本当に美しい姿が見られました
夏から秋のお参りがお勧めです
光仁天皇陵は、規模の小さな円丘です。陵の前には、管理小屋と小さな手水鉢がありました。今の時期は周囲を歩いたりは出来ないようですが、雑草が枯れ、稲刈りが終わった時には一周できるかもしれませんね。
また、光仁天皇陵と道を挟んで向かい側には、奈良の皇陵の調査・修復に尽力した「北浦定政」さんの顕彰碑とお墓があるそうです。残念ながら私たちは見逃してしまいましたが、ぜひ手を合わせておいてください。
光仁天皇陵を正面から。周囲には管理小屋と小さな手水鉢がありました。今の時期は周囲を歩いたりは出来ないようですが、冬になれば一周できるかもしれません
より大きな地図で 奈良市・田原の里 を表示
■光仁天皇陵(田原東陵)
HP: http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/049/index.html
住所: 奈良県奈良市日笠町
駐車場: あり
アクセス: 近鉄「奈良駅」から、奈良交通バス「日笠」下車、徒歩5分ほど
■参考にさせていただきました!
光仁天皇 - Wikipedia
光仁天皇(709-781)
第49代光仁天皇陵
■関連する記事