2013-06-27

悲劇の宰相が眠る『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町

悲劇の宰相が眠る『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町

奈良時代に無実の罪で自害させられた悲劇の宰相「長屋王」。生駒郡平群町の墓『長屋王墓』は、ともに亡くなった正妃『吉備内親王墓』と近い場所に仲良く築かれています。高貴な血筋の左大臣のお墓にしては小さな円墳で、周りを民家に囲まれていますが、宮内庁によってきれいに管理されていました。



「長屋王の変」で自害させられた左大臣

奈良時代の悲劇の宰相「長屋王」(ながやおう。正式には「ながやのおおきみ」)。

天武天皇を補佐した「高市皇子」の長子で、有能な左大臣として聖武天皇を補佐していましたが、藤原四兄弟の陰謀(と思われる)による「長屋王の変」の際に、妻と四人の皇子とともども自刃に追い込まれてしまいます。その後、藤原四兄弟は次々に疫病に倒れ、長屋王の祟りと恐れられる存在になった方です。

長屋王の邸宅跡だった「イトーヨーカドー奈良店」から、たくさんの木簡が発見され、長屋王一族が優雅な生活を送っていたことでも、より名前が知られるようになりましたね(関連記事「『長屋王邸跡』の痕跡探し@イトーヨーカドー奈良店」)。


長屋王は、奈良時代初期の皇親政治家で、神亀元年(724)に最高職の左大臣に就任し、聖武天皇を盛り立てて政治を行なっている。

長屋王は、壬申の乱で活躍した高市(たけち)皇子の長子で、夫人の吉備内親王とともに天武天皇の皇孫である。神亀6年(729)2月10日、皇位継承にからみ、謀反の疑いで館を囲まれ、夫妻と四人の皇子が自殺に追い込まれる。そして、8月に天平に改元、藤原不比等の娘、光明子が皇后(従来は皇族のみ)に立てられる。

『続日本記』には夫妻が生駒山に葬られたとあるが、近世資料に平群梨本の二つの塚が夫妻の墓との伝承がみえ、明治末期頃に宮内庁より現在のように整備されている。

長屋王墓が直径約15m、吉備内親王墓が直径約20mの円墳状をしている。

「長屋王御陵公園」説明看板より


そんな長屋王と、その奥さまである「吉備内親王(きびないしんのう)」は、交通量の多い168号線から一本奥まった、生駒郡平群町の梨本に、仲良く並んで葬られています。現在は宮内庁によって管理され、「長屋王御陵公園」という小さな公園(というかトイレ)まで作られています。


『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-01

平群町梨本にある「長屋王御陵公園」。この辺りは、長屋王と吉備内親王のお墓くらいしか観光スポットはありませんが、こんな立派な観光トイレが出来るんですね。今でも長屋王の人気は衰えていないようです

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-02
「長屋王墓と周辺の遺跡」の説明書き。この周辺には、長屋王墓や吉備内親王墓を含む、10基ほどの古墳が築造されているそうですが、平安時代以降に古墳は破壊され、当時の景観から大きく変容しているそうです

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-03
平群町のおすすめの観光コース。●北部コース「千光寺・役行者と修験の道」●中部コース「十三街道と業平ロマンの道」●南部コース「霊峰信貴山と戦国の夢街道」 この3パターンあります。平群町ホームページで詳しく見られます


『長屋王墓』は直径15mほどの小さな円墳状

宮内庁によって管理されている『天武天皇皇孫 長屋王墓』。墳丘は直径15m・高さ1.5mほどの円墳状で、周りは民家が迫っていますが、まだ静かなところだと言えるでしょう。

『続日本紀』には、長屋王と吉備内親王の亡骸は、ともに「生駒山に葬る」とのみ記されていたのですが、江戸中期にまとめられた『大和志』では、地元の伝承などをもとにこの地だと治定されたのだとか(つまり100%正確とは言えないということです)。

宮内庁の管轄ですからもちろん古墳上などへは立入禁止で、正面から遥拝することになります。小さな円墳ですが、とてもきれいに整備されていてちょっと安心しますね。実際にお詣りしても特に面白いものでもありませんが、古代史好きな方はぜひ手を合わせに行ってみてください。

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-04
宮内庁が治定した『長屋王墓』。南側に短い参道がついています。住宅地の真ん中にあり、とてもきれいに整備してあります

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-05
「天武天皇皇孫 長屋王墓」の看板

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-06
御陵にて。四角い石垣と生垣で囲まれています。この鳥居の前から手を合わせておきましょう

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-07
少し脇へずれると、円墳の様子が見えます。見た目は普通の小さな丘ですが、ここに長屋王が眠っているのかと思うと、感慨深いです!なお、長屋王が埋葬される前は、ここに6世紀前半の別の前方後円墳が築かれていたのだとか。それを削って作ってあります

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-08
すぐ前には水田が広がっています。眺めが良いままでいいですね


民家の間に埋もれている『吉備内親王墓』

長屋王墓から150mほど北西に、その正妻を葬った『吉備内親王(きびないしんのう)墓』があります。丘の斜面にあるため、やや長めの石段の参道がついています。

ただし、周囲を完全に民家に囲まれているため、かなりごちゃごちゃした印象なのが残念ですね。初めて行った時は、まさかこんなところに古墳がある(しかも宮内庁管轄のもの)とは思えなかったくらいです。

古墳の形状は、こちらも円墳状です。旦那さまの長屋王の陵墓が直径約15mなのに対し、奥さまの吉備内親王墓の陵墓は直径約20mと、ちょっと大きいのが面白いところです(笑)


『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-09

長屋王墓から、北西150mほどの位置にある『吉備内親王墓』。丘の上に向かって伸びる細い石段の先にあるのですが、周囲を完全に民家に囲まれているため、知らない人は気づかないかもしれませんね。看板には「天武天皇皇孫長屋王妃 吉備内親王墓」とあります

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-10
石段を途中まで進んでも、なかなか陵墓の姿が見えてきません

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-11
やっと姿が現れます

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-12
「岡宮天皇 皇女 吉備内親御墓」。岡宮天皇とは、皇位につく前に亡くなった草壁皇子のこと。その両親は天武天皇・持統天皇ですから、ご夫婦ともに高貴な血筋だったことが分かります

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-13
脇から少しだけ墳丘の様子が見えます

『長屋王墓』&『吉備内親王墓』@平群町-14
御陵から見下ろしたところ。ここまで四方に民家が迫っている御陵もなかなか無いかもしれませんね


長屋王に関連する万葉歌など

我が背子が 古家(ふるへ)の里の 明日香には
千鳥鳴くなり 妻待ちかねて
長屋王 万葉集 巻2-268
あなたの古家の残る里、ここ明日香では、千鳥がしきりに鳴いています。我が妻を待ちわびて……。

694年の藤原京への遷都後に、飛鳥を訪れて詠んだ歌。684年生まれの長屋王は、藤原京への遷都の当時は10歳。幼い頃の思い出が詰まった土地だったでしょう。

佐保過ぎて 奈良の手向けに 置く幣(ぬさ)は
妹を目離(めか)れず 相見(あひみ)しめとぞ
長屋王 万葉集 巻2-300
佐保を通り過ぎて奈良山の手向けの神に奉る幣は、あの子に絶えず逢わせたまえという願いからなのです。

「長屋王、馬を奈良山へ駐めて作る歌二首」のうちの一首。もう一首は「岩が根の こごしき山を 越えかねて 音には泣くとも 色に出でめやも」。奈良山は、奈良と京都の境にある山。御幣(しめ縄の紙垂(しで)のようなもの)を奉って祈るのは、土地の神さまのためだけではなく思い人のためでもある、という甘い歌です。

大君の 命畏(みことかしこ)み 大殯(おほあらき)の
時にはあらねど 雲隠ります
倉橋部女王 万葉集 巻3-441
大君の仰せを恐れ承って、殯宮などまだお祭りすべき時ではないのに、わが王は雲のかなたにお隠れになっていらっしゃる。

729年(神亀6年)、左大臣・長屋王が自決した後に詠まれた挽歌です。作者の「倉橋部女王」は、長屋王の娘ではないかと考えられているそうです。それが正しいとすると、実の父とその正室、そして男子4人も一緒に亡くなったのですから、大きなショックだったでしょうね。長屋王のお墓の前で思い出すべき歌かもしれません。



より大きな地図で 長屋王墓 を表示


■長屋王墓

HP: 宮内庁治定 長屋王墓 - 平群町公式ホームページ
所在地: 生駒郡平群町梨本字前758
駐車場: なし
アクセス: 近鉄生駒線「平群駅」から徒歩7分ほど


■吉備内親王墓

HP: 宮内庁治定 吉備内親王(きびないしんのう)墓 - 平群町公式ホームページ
所在地: 生駒郡平群町梨本字前773

※実際にお詣りしたのは「2013年6月17日」でした


■参考にさせていただきました

長屋王 - Wikipedia
平城京で起きた最初の政変・長屋王の変


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