2011-07-10

短い都の跡『史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)』@木津川市

短い都の跡『史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)』@木津川市

京都府木津川市にある『史跡 恭仁宮跡(山城国分寺跡)』へ立ち寄ってきました。奈良時代にわずか4年ほど都が置かれた土地です。今は礎石くらいしかありませんが、廃都の寂しさが感じられる場所でした。


740年、平城京から恭仁京へ遷都されます

「続日本紀」によると、藤原広嗣の乱など、治まらない国の内情に疲弊した聖武天皇は、740年に平城京を離れ、京都・恭仁京への遷都を行います。この相楽の土地が新都として選ばれたのは、時の左大臣・橘諸兄(たちばなのもろえ)の領地があったこと、木津川沿いの交通の要所だったことなどが理由と考えられています。

741年、この地で「国分寺建立の詔」が発せられますが、743年には都の造営は中止され、聖武天皇は滋賀・紫香楽宮(紹介記事へ遷都し、744年に大阪・難波京へ移った後、745年には平城京へ戻って来ます。この不可解とも言える連続した遷都によって、大規模な工事が続いたため、庶民への負担も高まったそうです。

746年には、恭仁宮跡であった場所は「山城国分寺」へと転用され、広大な寺域に金堂(大極殿)や七重塔を持つ巨大寺院だったそうです。



恭仁京は、奈良時代に聖武天皇によって造られた都です。当時、たびたび疫病や戦乱に見舞われ、世情不安の中、こうした事態を打開するためか、聖武天皇は、奈良の平城京を離れ、各地を転々とした後、天平12年(740年)に現在の加茂町瓶原(みかのはら)の地を中心に新都を定めました。しかし、恭仁京は天平16年(744年)にわずか四年あまりで廃都されてしまいます。

その後、宮域は大極殿を中心に、山城国分寺として再利用されることになります。山城国分寺は、恭仁京の大極殿をそのまま用いた金堂跡を中心に南北三町(約330m)、東西二町半(約275m)の広大な寺域をもつ寺でした。山城国分寺跡(恭仁宮跡)には、現在も金堂跡(大極殿跡)基壇と塔跡基壇が地表に残されています。皆さんの立っている場所は、塔跡の正面になります。周囲を塀に囲まれた塔は、残されている基壇跡や礎石跡から考えて七重塔であったと推定されます。

説明看板より


古の都も今は七重塔跡の礎石があるだけ

そんな、今から1350年も前の首都・恭仁京跡ですから、現在はほぼ何もありません。若草が生い茂る原っぱに、説明の看板と、七重塔跡の礎石があるくらいです。また、後から知ったことですが、敷地の北側には金堂跡(大極殿跡)の石碑があったようです(残念ながら見落としてしまいました)。

現地には特に何もありませんが、近くにある「山城郷土資料館」には、山城国分寺の復元模型などもあるようですので、合わせてどうぞ。


史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-01

京都府木津川市にある『史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)』。奈良時代のわずか4年間ほど、ここが日本の首都とされました。見た目は、広々とした原っぱですね。案内看板と礎石跡があるだけです

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-02
現地の説明看板。七重塔と塀に囲まれた大極殿が立った、当時の様子が描かれています

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-04
「史跡 山城国分寺跡」の石碑と、七重塔跡の礎石。ここにそんな高い塔が立っていたら、さぞ壮観な眺めだったことでしょう

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-05
七重塔跡の礎石たち

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-06
史跡の片隅には、7月10日にもなって、なお満開の紫陽花が。この左手は、懐かしい木造校舎が残されている「恭仁小学校」です

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-07
夏雲と恭仁京跡。敷地の北側には、金堂跡(大極殿跡)を示した石碑が立っていたようですが、残念ながら見落としてしまいました…

史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)-08
恭仁京跡とされている場所の周辺も、やはりこんなのどかな雰囲気でした。しかし、ここに日本の首都が置かれた時代もあったのですから、不思議なものですね


万葉集で大伴家持が歌を詠んでいます

奈良時代を代表する歌人であり、万葉集の編纂者とも考えられている「大伴家持(おおとものやかもち)」は、恭仁京の土地でも多数の歌を遺しています。

都道(みやこぢ)を 遠みか妹が このころは
うけひて寝れど 夢に見え来ぬ
大伴家持 万葉集 巻第4-767
この久邇の都までの道が遠いからであろうか、近頃は、いくら神様に祈り言をして寝ても、あなたが夢にも見えてくれないのは。
今知らす 久邇の都に 妹に逢はず
久しくなりぬ 行きて早見(はやみ)な
大伴家持 万葉集 巻第4-768
今新たに御代知らしめす久邇の都にあって、あなたに逢わずずいぶん久しくなってしまった。奈良に帰って一刻も早く逢いたいものだ。


この2首は、奥さまの「坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ。または大伴坂上郎女)」に贈ったもの。おそらく奈良の都に奥さまを残しての単身赴任だったのでしょう。この他にも、久邇の京からたくさんの歌を贈っています。

また、同じく大伴家持が詠んだ、こんな歌も残されています。

今造る 久邇の都は 山川の
さやけき見れば うべ知らすらし
大伴家持 万葉集 巻第6-1037
今新たに造っている久邇の都は、めぐる山や川がすがすがしいのを見ると、なるほど、ここに都をお定めになるのももっともなことだ


743年8月、造営中だった恭仁京を見て、大伴家持が褒めたたえた歌です。この翌年には紫香楽宮へ遷都されてしまうため、そう思いながらこの歌を見てみると、やや物悲しい印象になりますね。今は何もない恭仁宮跡ですが、現地でこの歌を思い出してみると、きっと感慨深いでしょう。



大きな地図で見る


■史跡恭仁宮跡(山城国分寺跡)

HP: 木津川市ホームページ
住所: 京都府木津川市加茂町例幣
電話: 0774-76-8170 (木津川市観光協会)
駐車場: なし
アクセス: JR大和路線「加茂駅」から徒歩30分


■参考にさせていただきました!

恭仁京 - Wikipedia
聖武天皇・恭仁京跡






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