2016-02-02

空海が碑文を書いた平安時代の堤防跡『益田池の堤跡』@橿原市

空海が碑文を書いた平安時代の堤防跡『益田池の堤跡』@橿原市

橿原市白橿町の「益田池児童公園」に、平安時代に造られた灌漑用の池の堤跡『益田池の堤』(長さ約55m・高さ約8m)が遺されています。工事の際には、弘法大師空海が碑文を書いて協力したという、由緒正しい遺物です!近くの山上にある「益田岩船」は、空海の石碑を建てるための土台ではないかという説もあります。まとめて見てきました!


平安時代の堤跡。一部が遺ってます

橿原市白橿町の『益田池の堤』(県指定史跡)は、平安時代に造られた灌漑用の池「益田池」(Wikipedia)の堤の一部がそのまま残されたものです。

この堤は、工事の着工が弘仁13年(822)でした。現在の「北は鳥屋橋北側、南は鳥坂神社まで」という、約200mにもわたって築かれていました。近代になって益田池は埋め立てられ、「橿原ニュータウン」として開発されたエリアになっています。

こんな時代の堤が、現在でも約55m(高さ8m)にわたって保存されており、「益田池児童公園」で見ることができるというのですから、なかなかすごいことですね!


益田池の堤跡 @橿原市-01

橿原市白橿町の「益田池児童公園」には、奈良県指定の史跡「益田池堤」があります。近鉄「橿原神宮前駅」から徒歩13分ほど。駐車場などはありませんので、お車の方はご注意を

益田池の堤跡 @橿原市-02
これが益田池の堤跡。いまは埋められていますが、この部分は平安時代に人工的に造られた、大きな灌漑用池の底だったことになります。現在残っているのは約55m・高さ8mの部分。造られた当時は、これが約200mも続いていたそうです

益田池の堤跡 @橿原市-03
益田池の堤「この堤は、高取川を堰き止めて大貯水池を作るために平安時代初期に築かれたもので、北は鳥屋橋北側、南は鳥坂神社までの長さがあった。しかし河川改修等の土木工事や土取りで昔の面影が失われてきている。堤は10cm~30cmごとにつき固め、徐々に背を高くしており、途中には黒灰色の強い粘着力のある土をはさんでいる。高さは海抜80m前後で、現在残っている堤の部分では9m~10m積み上げられていることが判っている。また堤の幅のひろいところで40mにたっするのではないかと考えられる(後略)」

益田池の堤跡 @橿原市-04
「史跡 益田池の堤 附樋管」の説明書き。池の周辺の工事の際に、2箇所から「樋管(ひかん)」(堤防の下を通り抜ける、排水・灌漑用の水路)が発見されており、約90mも続いていたと考えられるとか。平安時代の治水事業の重要な資料であり、現在は「橿原考古学研究所附属博物館」で展示されています


空海が書いた「大和州益田池碑銘」

この『益田池の堤』の注目ポイントは、かの弘法大師「空海」(Wikipedia)が工事の際に文章を寄せ、碑文を書いたことが判明していることです。

空海が遺した詩・碑銘などを弟子の真済(しんぜい)が編んだ『性霊集』に、「大和州益田池碑銘」として収められています。

「大和州益田池碑銘」(一部抜粋)

ここに一坎(いっかん)有り。
其の名は益田。
之を掘るは人力にして、
成るは也(また)天に自(よ)りす。
車馬 霧のごとくに聚(あつ)まり、
男女(なんにょ) 雲のごとくに連なる。

(意味:ここに一つの池がある。その名を益田という。それを掘ったのは人の力であるが、出来上がったのはやはり天のお陰である。車や馬は霧のように集まり、人びとは雲のように連なった。)


『空海の歩いた道』より(頼富本宏・永坂嘉光著 小学館)


この益田池の堤の工事には、空海は直接は携わっていません。勅命により、空海の弟子・真円や、親しかった担当長官・伴国道(とものくにみち)らが現場を担当していました。その工事が円滑に進むよう、故郷・讃岐の万濃池(まんのういけ)の修復に実績のあった空海に、その文章力と能筆を生かして銘文を揮毫してもらうことで、人々の協力を得ようとしたのです。

その結果、人や車馬も多く集まり、比較的短期間で工事が完成したというのですから、さすがは空海ですね。その書は「近代デジタルライブラリー」で見られますが、書としても優れたものだと高く評価されているのだそうです。


益田池の堤跡 @橿原市-05

幅約55m・高さ約8mほどの小さな丘ですが、「空海が(銘文のみですが)建設の協力した堤」と考えると、ありがたさが増したような気になります

益田池の堤跡 @橿原市-06
益田池の堤跡は、上にあがることもできます。北側を見たところ。ゆるやかに湾曲しているのが分かります。この方向は、もうちょっと先にある「鳥屋橋」の北側まで続いていました。堤自体は当時でも200mほどですが、満水時の貯水量は140万~180万トンというのですから、かなり巨大な池だったと推定されています

益田池の堤跡 @橿原市-07
堤跡の上から、南側を見たところ。木がこんもりしている鳥坂神社のところまで堤は繋がっていたようです

益田池の堤跡 @橿原市-08
堤跡の上には、位置関係を示したマップ「益田池復元図」も設置されています。古くなっていてかなり見づらいのが残念です


空海の石碑の土台?巨石「益田岩船」

「益田池の堤跡」から南へ1.5kmほどの小高い山の頂部に、不思議な『史跡 岩船』(通称「益田岩船(ますだいわふね)」)があります。


推定800トン(!)という巨石で、上部には2つの四角い孔が彫られています。何の目的でこの孔が掘られ、なぜ放置されてしまったのかは不明で、古墳の石槨、天文台、祭壇など、さまざまな説が出されています。

そして、そのひとつに、空海が揮毫した「大和州益田池碑銘」の石碑のための台ではないか、という説もあります。当時は益田池はこの辺りまで水をたたえていたはずですし、その池面を見下ろすような丘の上に石碑が建立されるのも、自然な流れでしょう。


益田岩船 @橿原市-11

「益田岩船」は、橿原市白橿町1丁目、白橿南小学校の裏手の「石船山」の頂上付近にあります。途中でロープを掴んで上がるほどの、やや険しい上り坂を数分進むと、竹やぶの中に大きな姿を表します

益田岩船 @橿原市-12
益田岩船は花崗岩の巨石で、東西11.0m×南北8.0m×高さ4.7m。台形をしています

益田岩船 @橿原市-16
山の頂上側から見下ろすと、岩の上部に丹念に掘られた跡があるのが見えます

益田岩船 @橿原市-15
東西に2つの方形の孔が並んでいて、どちらも「1.6m四方×深さ1.3m」と、ほぼ同じサイズだとか。これを台座として大きな石碑が建てられ、そこに空海の銘文が刻まれていた可能性もあるのですから、壮観だったことでしょう!

益田岩船 @橿原市-17
また、岩肌にはこんな加工途中で放置されたような跡があったり……

益田岩船 @橿原市-18
なめらかな溝が掘られたりした部分もあります。不思議ですね!



■益田池の堤跡

HP: http://www.city.kashihara.nara.jp/kankou/own_bunkazai/bunkazai/shiteibunkazai/masudaike.html
住所: 奈良県橿原市白橿町1-10 益田池児童公園
料金: 無料
アクセス: 近鉄「橿原神宮前駅」から徒歩13分ほど

※実際に行ったのは「2016年1月22日」でした


■参考にさせていただきました

高野山入山 -エンサイクロメディア空海-
益田池 - Wikipedia
近代デジタルライブラリー - 益田池碑銘帖


■関連する記事






  • Twitterでフォローする
  • Facebookページを見る
  • Instagramを見る
  • ブログ記事の一覧を見る







メニューを表示
ページトップへ