天武天皇を祀る「国栖奏」の社『浄見原神社』@吉野町
吉野町南国栖にある、天武天皇を祀る『浄見原神社』へお参りしてきました。奈良県無形文化財に指定されている歌舞「国栖奏(くずそう)」で知られる古社で、美しい吉野川の淵にある、静かで落ち着く空気が流れていまいした。
吉野川の淵にある隠れ里的な神社です
吉野郡吉野町にある『浄見原神社(きよみはらじんじゃ)』は、天武天皇を祀る古社で、奈良県無形文化財に指定されている古式ゆかしい歌舞奉納「国栖奏(くずそう)」で知られています。
近鉄吉野線「大和上市駅」から車で約30分ほどの場所にあり、国道169号線から370号線へ、「国栖」の交差点を入ってから、また民家の間の細い道を進んで…と、かなり分かりづらい場所にあります。この日は平日で、他の方は誰もいらっしゃらなかったので、お近くの施設の方にお断りして駐車場を使用させていただきました。国栖奏が奉納される日(毎年旧正月十四日)には、そんなスペースは無いと思われますので、なかなか参列するのも難しいんですよね。
車がギリギリ通れる細い道のあとは、美しい吉野川(天皇淵と呼ばれています)に沿って、細い道を5分ほど歩きます。隠れ里と呼びたくなるほど奥まった場所で、思わず壬申の乱の頃の様子を想像したくなります。
吉野町にある『浄見原神社』前の清流。天武天皇を祀る、縁の深いお社で、吉野川のこの淵は「天皇淵」と呼ばれています。謡曲「国栖」には、大海人皇子が食した鮎の半身が生き返って、再び清流を泳ぐシーンが描かれているそうです。それがまさしくこの場所に当たるのかもしれません
応神天皇の時代から奉納される「国栖奏」とは
吉野という土地(特に近くにある「宮滝」)は、天武天皇・持統天皇の御代から聖なる場所として扱われてきました。天武天皇の即位前の「大海人皇子」だった頃、甥の大友皇子と皇位を争った壬申の乱でも、吉野を拠点として挙兵しています。
境内にあった案内書きには、吉野の歴史が古事記・日本書紀の時代まで遡って説明してありましたので、こちらに転載しておきます。
吉野は古く、古事記・日本書紀の神代編にその名を現します。古代の吉野は今の吉野山を指していたのではなく、吉野川沿岸の地域をそう呼んでいました。古事記・日本書紀に書かれていることがそのまま歴史的事実とは言えませんが、記紀に伝える模様を裏付けるように、縄文弥生式の土器や、そのころの生活状態を推定させる、狩猟の道具がこの付近からも発掘されています。
記紀には「神武天皇がこの辺りへさしかかると、尾のある人が岩を押分けて出てきたので、おまえは誰かと尋ねると、今、天津神の御子が来られると聞いたので、お迎えに参りました。と答えました。これが吉野の国栖の祖である」という記載があり、古い先住者の様子を伝えています。
「国栖奏のこと」より抜粋
この辺りには「尾のある人」が住んでいたことが記されています。この「尾」がどのようなものを表現しているのか分かりませんが、山深い土地に暮らす未開の部族というニュアンスがこめられていたのでしょう。
その後、応神天皇に奉納した歌舞が、今も伝わる「国栖奏」の原型となったとされ、この土地に潜んでいた大海人皇子の前でも奉じられたとされています。
又、記紀の応神天皇(今から約1600年前)の条に、天皇が吉野の宮(宮滝)に来られたとき、国栖の人びとが来て一夜酒をつくり、歌舞を見せたのが、今に伝わる国栖奏の始まりとされています。さらに今から1300年前ほど昔、天智天皇の跡を継ぐ問題がこじれて戦乱が起こりました。世にいう壬申の乱で、天智天皇の弟に大海人皇子は、ここ吉野に兵を挙げ、天智天皇の皇子、大友皇子と対立しました。戦は約1か月で終り、大海人皇子が勝って天武天皇となりました。
この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人は皇子に味方して敵の目から皇子をかくまい、また慰めのために一夜酒や腹赤魚(うぐい)を供して歌舞を奏しました。これを見た皇子はとても喜ばれて、「国栖の翁よ」と呼ばれたので、この舞を翁舞と言うようになり、代々受け継がれて、毎年旧正月十四日に天武天皇を祭る、ここ浄見原神社で奉納され、奈良県無形文化財に指定されています。
「国栖奏のこと」より抜粋
国栖奏とは、神前に栗・一夜酒・ウグイ・根芹・赤蛙などの珍味を供え、精進潔斎した筋目といわれる家筋の男性12名(舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、歌翁5人)が歌舞を奉納する儀式です。私自身、まだ国栖奏を拝見していませんが、いつか必ず参列してみたいと思っています。
謡曲「国栖(くず)」と国栖奏謡曲「国栖」は、浄見原天皇が叛乱のために吉野に遷幸あそばされた時、老人夫婦が根芹(ねぜり)と国栖魚を供御し奉り(国栖魚の占方)、やがて追手の敵が襲って来ると、天皇を船にお隠しして(州股の渡)御難をお救い申し上げた。そして、御慰めのために天女が現れて楽を奏し(五節舞)、蔵王権現が現れて御味方申し上げ、かくて世は太平になった、という曲である。
記紀、應神記には、天皇吉野行幸の時、国栖人が醴酒と土毛(根芹)とを献じ、伽辞能舞(かしのぶ)の歌舞を奏すとあり是が国栖奏の始めである。
国栖奏は、十二人の翁による典雅な舞楽で、国栖人は壬申の乱平定に功績があったとして天武天皇(浄見原天皇)の殊遇を賜り、大嘗祭に奉奏する外、毎年元旦には宮中に召されて歌舞を奏せしめられた。
●「国栖奏」について
吉野町 浄見原神社国栖奏
境内にあった「国栖奏のこと」という説明看板。歴史的な観点から見た吉野のことが詳しく説明してあります
こちらは、「謡曲「国栖」と国栖奏」の説明。謡曲史跡保存会の方が立てられたものです
壬申の乱の当時に思いを馳せる場所です
浄見原神社への道は、吉野川と山の間で、ほんのわずかな道幅しかありません。いい季節に行っても少し怖いくらいですので、旧正月14日の国栖奏の日には、雪が積もっていても不思議はありませんから、より歩きづらいでしょう。
そんな道が突き当たった部分に、岩肌に張り付くように石段が作られています。その先には、鳥居と社殿が鎮座しています。祠を遠目に拝するだけですが、とても落ち着く場所でした。
この辺りまでくると、余計な騒音もほぼ聞こえてくることもなく、まるで地の果てにいるような、全てのものから身を隠しているかのような不思議な気分になりますね。壬申の乱などの古代史がお好きな方であれば、色々とイメージは膨らむと思いますので、ぜひ宮滝などを訪れる際には立ち寄ってみてください。
川と山とに挟まれた狭い道を進むと、右手に「仮屋」という建物が見えてきます。国栖奏の際に、ここで身支度を整えたりするんでしょうか
しばらく歩くと、石段とその先の鳥居が見えてきます。細い道の突き当りにあり、人が身を隠すのにも、古くから聖なる土地と崇めるにも、どちらにも相応しい場所に感じられました
石段の途中から本殿を見たところ。御祭神は天武天皇です。ひっそりと静かに祀られていらっしゃいました
この日(2011年6月27日)は、浄見原神社の境内には、青くて美しい蝶が乱舞していました。詳しくは分かりませんが、おそらく日本の国蝶「オオムラサキ」だと思います
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■浄見原神社
HP: 参考サイト(国栖奏/奈良県公式)
住所: 奈良県吉野郡吉野町南国栖
電話: 0746-32-3081(吉野町観光商工課)
主祭神: 天武天皇
創建: 不明
拝観料: 無料
駐車場: なし
アクセス: 近鉄吉野線「大和上市駅」から車で約30分
※実際にお参りしたのは「2011年6月27日」でした
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