2011-01-21

古の都『飛鳥京跡』の夕景を見てきました@明日香村

古の都『飛鳥京跡』の夕景を見てきました@明日香村

皇極天皇の「飛鳥板葺宮」と、天武・持統両天皇の「飛鳥浄御原宮」が隣接している『飛鳥京跡』。新たな遺構が見つかったと聞いてふらりと行ってみましたが、思いがけずきれいな夕日が見られました。


皇極・天武・持統天皇も見たであろう夕日

2011年1月20日に、こんなニュースが流れてきました。



 奈良県明日香村の飛鳥京跡にある天武、持統両天皇の宮殿、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)跡の内郭の北側で、同宮と同時期の7世紀後半の石敷きと塀跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が20日、発表した。周辺は役所群があったと想定され、橿考研は「計画的な区画整備が明らかになった」としている。

 同宮を斜めに横断する吉野川分水(農業用水路)の改修工事に伴い、内郭の北約100メートルの場所を調査。石敷きは人頭大の石を並べた南北5メートル分が両岸で見つかり、直角に曲がる石組み溝(幅40センチ、深さ10センチ)が確認された。
MSN産経ニュース「奈良・飛鳥京跡で石敷きと塀跡を発見 計画的整備裏付け」より


この奈良県明日香村の「飛鳥京跡」とは、記事中の天武・持統両天皇の宮殿があった「飛鳥浄御原宮(672~694年)」跡と、ほぼ隣接している「飛鳥板蓋宮(板葺宮。643~645年)」跡のことを指します。ややこしい話ですよね(笑)



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つまり、645年の「大化の改新」に繋がる蘇我入鹿殺害クーデター「乙巳の変(いっしのへん)」の舞台であり、それから30年近く後、日本の律令制度の礎を築いた天武・持統天皇の両天皇がいた場所となります(その後、694年に藤原京、710年に平城京へと遷都されます。詳しくはこちら「日本の首都 - Wikipedia」)。

難しい話は抜きにしても、そんな場所に立って夕日を見ていると、歴史の雄大さを感じます。葛城金剛山へ夕日が落ちていく風景は、今から1300年以上も前の天皇や都の人々が見たものとほぼ変わらないでしょう。そう考えるとすごいことですよね。


●以前の記事
「スターの恋人」ロケ地『飛鳥板蓋宮跡』@明日香村


飛鳥板葺宮跡@明日香村-01

「伝飛鳥板葺宮跡」に立つ案内看板。皇極天皇の宮があったと考えられている場所です。天武・持統天皇の両天皇の「飛鳥浄御原宮」は、ここから北へ100mほどの場所にあったとされています

飛鳥板葺宮跡@明日香村-02
飛鳥板葺宮跡の夕焼け。葛城の金剛山地に落ちる夕日は、今も昔もずっと変わらない光景でしょう

飛鳥板葺宮跡@明日香村-03

飛鳥板葺宮跡@明日香村-04
「采女(うねめ)の 袖吹きかえす 明日香風(あすかかぜ) 都を遠み いたづらに吹く」 志貴皇子の有名な万葉歌の歌碑が建っています。藤原京へ遷都された後、寂しくなった飛鳥の土地を思って詠んだもの。現代でも通用する内容ですね


飛鳥浄御原宮の遺構は立ち入り禁止に

「飛鳥浄御原宮跡」は特に目印になるようなものもありませんが、飛鳥板葺宮跡から100mほど離れた場所で、吉野川分水路の改修工事を行っていましたので、恐らくそこが、今回7世紀後半の石敷きと塀跡が見つかった場所でしょう。

「石敷きは人頭大の石を並べた南北5メートル分が両岸で見つかり、直角に曲がる石組み溝(幅40センチ、深さ10センチ)が確認された。」というのですから、そんなものが今でも発掘される飛鳥の土地は、本当にすごいところだと思います!

ただし、遺構が見つかったとはいえ、今回はただの工事現場扱いですから、せっかくの新発見も一般公開されません。完全に立ち入り禁止となっていました。ちょっと残念ですね。


飛鳥浄御原宮跡@明日香村-01

飛鳥板葺宮跡から少し離れた場所で、河川の改修工事をやっていました。恐らくここが「飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)」の遺構である石敷きが見つかった場所でしょう

飛鳥浄御原宮跡@明日香村-02
遺跡の発掘調査現場であれば、近づいて見せてもらえることもあります。しかし、今回は「吉野川分水路改修工事」の工事現場に過ぎませんので、完全に立ち入り禁止となっていました

飛鳥浄御原宮跡@明日香村-03

飛鳥浄御原宮跡@明日香村-04










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