
教えて、お坊さん! 「さとり」ってなんですか
キーワードは「さとり」。仏教の教えの奥深さと包容力が感じられる良書
インターネット寺院「彼岸寺」で連載されていた「ひらけ! さとり!」という記事の書籍化です。仏教ファンを自認する著者がお坊さんたちに会いにゆき、「さとりとはなんですか?」とド直球で聞いていく、とても興味深いインタビュー集になっています。
かなり大仰なタイトルですが、現代を生きる上で仏教とどのように付き合っていけばいいか、どんな思想を取り入れていけばいいかなど、新たに仏教的なもの包容力のようなものを存分に感じさせてくれる一冊でした。
著者の小出遥子さんとは個人的に面識もあるため、ウェブ連載中から楽しみに拝読してましたが、やはりまとめて読めるのはいいですね。いろんな言葉が染みてくるようでした。
説明文:「32歳の仏教女子が6名の賢僧に学んだ究極の「安心道」。32歳の熱心な仏教女子が、仏教の神髄ともいえる「さとり」について、6名の賢僧に学んだ珠玉の対話集。インターネット寺院・彼岸寺で連載した「ひらけ! さとり!」をもとに書籍化。」
第1章:「つながり」をたのしんで生きること(藤田一照さん・曹洞宗国際センター所長)
第2章:夢であると気づいた上で夢を生きること(横田南嶺さん・臨済宗円覚寺派管長)
第3章:「いま」という安らぎの中に生きること(小池龍之介さん・月読寺住職)
第4章:自分をまるごと受けいれて生きること--泥仏人生(堀澤祖門さん・三千院門主)
第5章:死では終わらない物語を生きること(釈徹宗さん・如来寺住職、相愛大学教授)
第6章:「ほんとうのいのち」に従って生きること(大峯顯さん・専立寺前住職、大阪大学名誉教授)
いずれも何冊も著作のあるような高名なお坊さんばかりですが、皆さん宗派や年代が違うこともあり、同じ質問をぶつけているはずなのに、まったく回答のニュアンスが違っているのが面白いですね。禅宗のお坊さんはやや哲学的な禅問答のようになったり、浄土真宗のお坊さんはお年寄りに諭すかのように分かりやすい例えで語られたり。
皆さんのお言葉はどれも重く深いものですが、こうやって順番に読んでいくと、より心に響いてくるお話と比較的遠く感じるお話がありました。そういった意味で、本書はより自分に響くお坊さんに、そして仏教の教えに出会える入口にもなりますね。それぞれのご著書を手にとってみたいと思います。
お話の内容は、さとりを開く方法といった大きなものばかりではなく、日々の過ごし方だとか死への向かい方だとか、一般の人間にも分かりやすいように語られています。
全体を通して「仏教的なものの考え方」にあふれていますが、それがどれほど親しみが感じられるものであるのか、あらためて実感しました。私も小さな頃から祖母とともに仏前でお経をあげたりして育ちましたし、仏教的な土台はありました。若い頃はあまり思いもしませんでしたが、中年に差し掛かるような年代になるとともに、仏教の教えに慰撫されることが増えました。
どこまでかかっても「さとり」は開けないとは思いますが、これからより仏教的なものに近づいていく機会が増えるんだと思っています。そういったことにあらためて気付かさせてくれた本書には感謝したいですね。
気になった言葉には付箋紙を貼りながら読んでいたので、メモ代わりにほんの一部だけ抜書きしておきます。
「手放すことの大切さって、いろんなところで説かれますけれど、でも手放すためには一回握らないといけないんですよね。そもそも手の中にないものは手放せないので……。」(P82 小出遥子さん)
「まあ、究極、素朴な言い方をすれば、「さとり」とかいうのはどうでもよくて、傷つかないで生きていくというのが大事なことなのです。」(P120 小池龍之介さん)
「私は、来世を説いてこそ宗教だ、と考えているんですよ。来世は、世俗の枠組みを超える領域でしょう。社会というのは、来世を取り扱うことができないんですよね。そういった、社会におさまらない枠組みを超えた領域を説いてこそ宗教です。」(P174 釈徹宗さん)
「(前略。キリスト教と比較して)I belive と頭に「I」がついてしまう。beliveはいいんだけど、そこに主語がつくと信心ではなくなる。他力の信心には主語がないんです。「私が阿弥陀さまを信じる」という意識じゃなくて、私を超えた「信」が私におこるわけです。「私」というものがないんだね。」(P222 大峯顯さん)
いろんな示唆に富んだ教えがあふれていて、何度でも読み返したくなるような素敵な内容でした。興味のある方はぜひ!