ヤマト王権誕生の礎となったムラ 唐古・鍵遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」135)
唐古・鍵遺跡の発掘の歴史や特徴が解説されたドキュメンタリー的な一冊
新泉社
売り上げランキング: 203,327
新泉社さんのシリーズ「遺跡を学ぶ」の一冊。弥生時代の大規模な環濠集落である、田原本町の「唐古・鍵遺跡」(Wikipedia)について、その特徴や調査の経緯などが解説されています。
この手の考古学系の本では、「この遺跡はかつてどのような姿だったのか」を中心に取り上げます(当然です)。しかしこのシリーズでは、この遺跡がどのようにして知られ、調査が入り、発見当初はどうだったのかなど、発掘ドキュメンタリーを見ているような楽しさがあります。
長年その調査・研究に携わってきた、田原本町埋蔵文化財センター長の藤田さんが執筆を手がけられているだけに、言葉のひとつひとつに重みを感じます。
奈良盆地中央に位置する弥生時代の大環濠集落、唐古・鍵ムラは列島の西と東を結び、七〇〇年間繁栄をつづけた。幾重もの環濠に囲まれたこの大集落によってクニへの道が築かれ、纒向遺跡へ、伝説の王宮の地へとつながってゆく。ヤマト王権が誕生する礎となった遺跡を解説する。
「内容紹介」より
唐古・鍵遺跡が世に知られるようになったのは、1901年のこと。それ以降、地元の飯田親子や、アマチュアながら考古学の発展に大きく寄与した森本六爾(Wikipedia)などによって調査が進み、弥生時代の農耕の実態が明らかになっていきました。
道路敷設に使用する土を得るため、唐古池の水を抜いた際には、橿考研の末永さんが現場と戦いながら奮闘した様子なども描かれていて面白いです。
以下、個人的なメモ代わりに。
●弥生時代の2棟の大型建物跡が見つかっている。1棟は大棟を支える柱が建物の外側にある、伊勢神宮・正殿のような形。神殿説が有力視されているが、原始時代において神が坐す建物が存在したのかという点で疑問視する意見も。
●大型建物はケヤキ材を多用されている。ヒノキ材と比べて直幹材が少ないため、私たちがイメージするような直線的な建築物ではなかった可能性も。
●楼閣と大型建物が描かれた壺は、1991年に南地区で出土し、翌年新聞に大きく取り上げられた。当時は国史跡ではなく、遺跡全体が田んぼだった。ランドマークとして楼閣を復元して建てたが、「こんな建築物が本当に弥生時代に存在したのか」という疑問から評判は良くなかったとか。後に大型建物跡が見つかったことでその疑問も解消された。
●多重の濠を巡らせた環濠集落ではあるが、戦国時代のように争乱に備えて掘られた、という理由だけではない。物資を船で運ぶ運河としての役割、ムラを洪水から守るなどの排水機能も主だったかも。
●唐古・鍵ムラが長い間維持してきた環濠を放棄するのは2世紀のこと。従来の銅鐸祭祀をやめ、新しく首長墓祭祀を確立するため、それまでの集落を放棄して、次期の盟主となる纏向集落を誕生させる一翼となったのではないか。