
天平期の僧侶と天皇―僧道鏡試論
悪評が伝わる「道鏡」について、鑑真や良弁、行基ら奈良仏教史から考察した一冊
女帝をたぶらかし皇位を狙った悪僧として、後の世に悪名を轟かせた「道鏡」について、鑑真や良弁、行基、玄昉ら奈良仏教史の中から考察した一冊。
奈良時代後半の仏教について、もうちょっと調べてみたいと手にとってみたのですが、よくある「悪い噂ばかりが伝わっているけど、実際は違う」という主張だけではありません。時代背景や人々の思惑などが伝わってきて、私にはやや難しいところもありましたが、よりリアルに感じられるようになりました。
説明文:「天平時代後半を精力的に生き抜いた僧道鏡は望んでも得られない天皇の位を切望した悪僧として描かれることが多いが、実像はいかに? 史書の斬新な読解と新史料の出現を受け、その奈良仏教者の存在感を見直す研究書。」
この時代の政治と宗教は、現在の感覚とは大きく違うこともあり、なかなか理解しづらいものがあります。
道鏡より以前の、玄昉や行基の流れから考えていくと、玄昉は吉備真備とともに政権の中枢に位置しましたが、それを引きずり下ろす目的もあって、指弾の対象だった行基をいきなり大僧正に任命し、玄昉を左遷したりしました。これは玄昉の霊力に対抗する存在として行基が期待されたという意味も含まれます。
また、民衆と近すぎる行基の存在も貴族社会には脅威として映るようになり、道鏡の霊力に対抗する存在として和気清麻呂を担ぎ出し、桓武天皇・嵯峨天皇・和気氏らが、平安新仏教の空海・最澄らを重用していく遠因ともなった、というものです。
政治と宗教がもっとも近づいた時代ですから、いろんな問題もあり、その揺り戻しも大きかったのでしょう。そのニュアンスだけは感じ取れました。
以下、個人的なメモ代わりに。
●留学経験もない道鏡が内道場に出仕できたのは験力が認められてのこと。師といえるのは二人。一人は路真人豊永(後に道鏡失脚にも関わる)。もう一人の東大寺・初代別当の良弁の使者として活動していた記録が正倉院文書に残っている。
●山岳修行をしていた道鏡は、葛城山への配慮があった。土佐国に放逐されていた高鴨神を、もとの大和国葛上郡(※本書では現在の広陵町となっているが、おそらく御所市の間違い)へと祀らせた。現在の高鴨神社。
●道鏡の出身の弓削氏からは、それほど多くの者が出世したわけではなく、藤原氏や吉備真備が牛耳っていた。いわば少数与党のような状態だった。
●宇佐八幡神託事件より以前に、東大寺大仏殿の造営にからんで、八幡神職団が偽の神託を奏上したとして、神職らとともに薬師寺僧・行信らが処罰されている。
●宇佐八幡神託事件の前年の766年、隅寺(海龍王寺)に安置されていた毘沙門天像の前に、仏舎利が出現。これが道鏡が法王となるきっかけとなった(後に仕組まれたことと判明する)。称徳天皇と道鏡は、両脇で仏を守護する吉祥天と毘沙門天に自らを重ねていた。
関連する本ももう少しあたっていきたいと思います。