伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
忘れられていた「斎宮跡」の発掘の歴史。単なる宗教施設ではない特殊な場所でした
古代から中世まで、皇族の未婚女性を選んで伊勢神宮へ「斎王」として仕えさせる制度がありました。その居所を「斎宮」といい、三重県明和町にその遺構があり、現在は『斎宮歴史博物館』という施設が建てられています(紹介記事)。その斎宮跡の発掘の歴史を、お馴染みの「遺跡を学ぶ」シリーズで取り上げた回になります。
私自身は、ほんの1ヶ月ほど前に現地へ行って、この本よりも詳しく解説された博物館の図録を読んでいますので、さすがにそれほど目新しい点はありませんでした。しかし、とても読みやすくまとまっていますし、まずはこの本を読んでおくと斎王のシステムを把握しやすいでしょう。
説明文:「かつて天皇にかわり、未婚の皇女が都から伊勢におもむき、伊勢神宮に祈りをささげる制度があった。その皇女の宮殿、斎宮は長く幻の宮と伝承されてきたが、発掘調査によって、平城宮をモデルとした広大な官衙であることが明らかとなった。皇女の宮を復元、追及する。」
斎王の制度自体は、南北朝時代まで続いていましたが、それ以降は荒廃し、斎宮の所在地すら分からなくなっていました。1971年の発掘調査では、国家の役場でしか出土していない、馬の蹄のような脚を持つ硯「蹄脚硯」が、さらに全長30cmの朱を塗った「土馬」などが見つかり、ここが伝承どおり斎宮跡だったことが発見されます。
斎宮の特殊さは、ただの宗教施設でも政の施設でもないことです。その時代にたった一人だけの斎王が、伊勢神宮の神に仕えるべく潔斎した生活を続けていたのです。
その中には、飛鳥時代に謀反の疑いをかけられて処刑された大津皇子の姉・大来皇女(大伯皇女。おおくのひめみこ)がおり、死を賜る直前に、姉に会うために大和から伊勢までやってきたエピソードが伝わっています。
また、その20年後には、伊勢斎王を20年以上も務め、後の光仁天皇の皇后になりながら、あらぬ嫌疑を掛けられて非業の死を遂げた井上内親王が、さらにその娘の酒人内親王も斎王を務めました。斎宮跡は、俗世間と切り離された清らかな生活を強いられた彼女たちのことを偲べる場所なのです。
遺跡的な特徴としては、平安時代ごろの他の建物が礎石・瓦葺きへと変わっていった後も、斎宮では掘立柱建築で、瓦も出土していないのだとか。瓦は寺院に使われるものという認識もあり、あえて使用を避けたようです。また女性が多く住まう場所らしく、当時は女性が使うものだった「ひらがな」の墨書がある土器が出土したり、祭祀に使われた土馬が多数見つかっているとか。
不思議な斎宮の世界を知る入門書になりますので、興味がある方はぜひ!