鎮護国家の大伽藍・武蔵国分寺 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
最大の寺域と壮大な伽藍を誇った武蔵国分寺。その発掘のリアルなドキュメンタリーです
聖武天皇が全国に「国分寺」(と国分尼寺)の建立を命じたのが741年。その中でも最大規模の壮大な寺域を誇っていたのが、武蔵国分寺です。現在の東京都国分寺市の名前の由来にもなっています。広大な寺地は史跡公園となっていますが、その発掘の進行のドキュメンタリーから、人口の多い都内の遺跡を守ることの難しさなどが伝わってきます。
説明文:「奈良時代の中頃、天然痘の流行、飢饉、藤原広嗣の乱など王権の危機に直面した聖武天皇は、各国に国分寺の建立を命じた。そして都からはるか遠く離れた武蔵国に、諸国の国分寺のなかでも最大の規模をほこる僧寺・尼寺が造営された。大伽藍の威容とその変遷を語る。」
私は数十年前まで国分寺市民でしたが、昨年初めて国分寺跡へ行くことができました(紹介記事→「聖武天皇が建立させた『武蔵国分寺跡』@東京都国分寺市」)。今は何もない原っぱのようになっていますが、周りに民家が密集した都内で、大事な史跡を開発から守り、保存されている様子に感動したものでした。
このシリーズでは、開発に関わった方がその作業進行のエピソードなどを綴ることで、当時の現場の空気感が伝わるドキュメントになっています。武蔵国の成り立ちから、聖武天皇の国分寺建立の詔、江戸時代に起こった地誌ブームで取り上げられた国分寺跡の様子などの解説から、1950年代の発掘の様子を伝えていきます。
史跡の一部が宅地として売りだされてしまったことが判明して、国会でも議論が交わされたりもしたとか。また、1988年の調査では、すぐ近くを走っていた幅12メートルもの古代の官道「東山道武蔵路」が発掘され、その一部が保存されたりと、色んなドラマが詰まっています。
武蔵国分寺の発掘にしても、少しずつ発掘の範囲を広げていった結果、大きく3つの年代に分かれるそうです。8世紀後半の創建から次第に堂塔が整えられ、七重塔までが建てられれます。しかし、七重塔は焼失し、9世紀後半に再建。この頃が最も寺観が整っていた時期とされ、次第に衰退していきます。10世紀~11世紀になると、次第に寺域が曖昧となり、竪穴式住居の跡が目立ち始めるというのですから、ゆるやかに廃寺化していったのでしょう。
金堂・講堂・七重塔・鐘楼・東僧坊・中門・塀・北方建物、さらに尼寺まで備わっていた官寺の末路を思うと、ちょっと切なくなりますね。本の記述は渋い内容の連続ですが、なかなか面白い読み物ですから、興味のある方はどうぞ!