将門伝説の歴史 (歴史文化ライブラリー)
叛逆者・英雄・祟り神。丁寧に文献にあたり平将門の乱とその後を解き明かした良書です
平安中期の939年、坂東の国司を追放しみずから新皇と名乗った平将門。同時期の藤原純友の反乱と合わせて「承平天慶の乱」と呼ばれますが、歴史の教科書ではほんの短い記述で終わってしまいますが、この反乱がどのような理由で起こされたものなのか、どのような結末を迎えたのか、あまり詳しく知る機会はありませんでした。
本書では文献に丁寧にあたり、その経緯を解き明かしています。後の時代に神や怨霊として扱われたこと、山東京伝や滝沢馬琴らから物語として描かれたこと、民衆の味方と最悪の叛逆者の間で評価が行き来したことなど、とても詳細に、それでいて分かりやすく解説されています。
説明文:「平安中期、新皇と称し坂東に王城建設を試みた平将門。敗死後の評価は叛逆者と英雄との狭間で揺れ、荒ぶる魂を鎮めるべく大手町の首塚や神田神社が築かれた。時代と地域によりさまざまに育まれた将門伝説の世界へ誘う。」
長い日本の歴史の中でも、朝廷を蔑ろにし対立したものは他にはほぼおらず、特異な例とされています。関東では神として神田神社の御祭神になっていたりしますが、関西にいる人間にとってはかなり縁遠い方でもあります。
扶桑略記に記述されている「この乱が平定されるように東大寺の僧侶たちが祈祷をしていると、執金剛神像が数万の蜂を率いて東国へ飛び立ち将門を討った。この時の傷のため、今でも像の一部が破損している」というエピソードくらいしか思い当たりません。
反乱の経緯は、当初は同族内の権力闘争から始まり、中央から派遣された国司らのトラブルの仲介をしたことより反乱へ……というようなことで、ほんの短い期間で鎮圧されています。しかし、中央(京都)から派遣され民を重税で苦しめる国司が多かったため、それに対した将門は次第にヒーローとして崇められていきます。それと同時に、中央の者にとっては将門が怨霊と化したとずっと恐れられていきます。
こうした土台があったために、後に鎌倉幕府を打ち立てる源頼朝が挙兵した際には、関東でも京の都でも平将門の再来のような捉えられ方をしたのだとか。近代でも、将門の首塚の祟りがおそれられたりしているのですから、存在感ありますね。
あまり誰もが興味を持つ時代ではありませんが、とても興味深いですから、興味がある方はぜひ!