平城京の住宅事情: 貴族はどこに住んだのか (歴史文化ライブラリー)
「平城京は身分が高いほど一等地を与えられた」こうした通説を再検討。とても興味深い内容でした
古代の道路に関しての著作の多い、近江俊秀さん(元奈文研、現文化庁)のご著書。平城京の貴族たちの住宅事情について考察していて、仮説と推論で組み立てているにしろ、とても興味深い内容でした。
説明文:「平城京にはどんな人がどこに住んでいたのか。長屋王邸などの発掘成果を駆使し、宅地の規模や構造から相続問題まで住宅事情に迫る。身分が高いほど一等地を与えられたとされる通説を見直し、当時の社会構造にまで言及。」
一般的に、平城京の区割りというと、「有力者ほど大極殿に近い土地を、大きな区画で与えられた」というイメージがありますが、これは一概には言えないのだとか。長屋王邸跡として知られる土地は、左京三条二坊のあたりで、まさに一等地の大区画でした。この大発見からよりこういう見方が定着しています。
しかし、意外にもそうとは言い切れない例も考えられ、より複雑な変遷があったようです。
平城京へ遷都した際には、人々はその時の「位階」に比例した面積の土地を与えられ、そこに住まいました。資料は少ないにしても、住宅地が公共の施設に転用されたり、別の所有者に移ったり、細分化された他宅地になったり、時代によって変化します。一等地であってもこうした傾向は見られるのです。
新田部親王が住んだ土地は、後に唐招提寺となります。さすがの広さですが、平城遷都の際に高位にいたにしては、中心部から離れています。これはこの土地のすぐ脇を川が流れていて、便が良かったという理由もあったようで、単に中心部から近いか遠いかだけではない要因もあるのだとか。
ちなみに、新田部親王の土地は、子の道祖王・塩焼王へと伝播されますが、両者が後に橘奈良麻呂の乱に加担したことから没収され、鑑真へ与えられています。一族の中で相続されていますが、やはり公の土地ですから、こうして所有者が変わることもあったそうですし、有力者は一等地の居住権を購入していた可能性も高いそうです。
本書では、舎人親王や藤原氏、没落気味の大伴氏などの実例を挙げて、平城宮の土地について読み解いていきます。また、奈良時代の遺産相続についてなどにも詳しく触れられていて、当時の社会構造についても思いをはせることができます。
盛りだくさんで上手く感想がまとまりませんが、平城京に暮らした人々の新たな姿が見えてきて、最後まで飽きずに読めました。比較的平易に解説されていると思いますので、興味のある方はぜひ!