神仏分離の動乱
明治の神仏分離(と廃仏毀釈)を具体的に解説。仏教側にも大きな要因が。良書です!
明治維新とともに巻き起こった「神仏分離」(と廃仏毀釈)の混乱。明治新政府の方針に従って、各地の仏像が無残に廃棄された痛ましい出来事、そんなイメージしかありませんでしたが、その社会的背景や各社寺ごとの事情などについて詳しく論じた一冊。
1968年に「仏教タイムス」紙に連載されていた内容を、2004年に改めて単行本としたものだとか。複雑な糸を解きほぐすように丁寧に解説してあり、とても分かりやすい良書でした!
説明文:「千年の長きにわたって仏教と平和に睦みあっていた神道を、突如無理やり切り離した「神仏分離令」こそ、あの戦争への最初にして確実な一歩だったのではないか…。戦後60年、改めて神仏分離の真相を歴史の足音として聞く試み。」
幕末までの社寺経営は、幕府や藩からの公的資金が豊富に投入されていました。薩摩藩の例が挙げられていますが、寺院数1066ヶ寺もあり、薩摩藩の87万石のうち、寺社を養うだけで10万石を費やしていたのだそうです。
日本に仏教が伝わって以来、内実はともかく、仲良く同居してきたように見えた仏教と神道ですが、財政的な余裕がなくなるとこうした点に改革の手が入ります。
太政官布告により、「神社にいる僧侶はすべて還俗せよ」という命が下り、神主や禰宜は、すべて寺院の別当の支配を離れ、政府機関であるところの神祗官の管轄下へと移ることになります。神道を回帰するという狙いもありましたが、同時に維持費が莫大な寺院経営改革をも目的としていました。
明治維新までは、神社は仏教僧侶の支配下にあり、収入の格差も大きかかったそうです。しかし、これを機会に立場が一気に逆転したようなもので、下に置かれていた社人たちが勢いに乗り、政府の禁止令を無視してまで、仏殿や仏具を破壊するような者も現れました。さらに悪いことに、当時の庶民たちは特権階級化していた僧侶を妬ましく思うものも多く、廃仏毀釈の波が一気に広がっていきました。
しかし、廃仏毀釈にもっとも積極的だったとされるのが、僧侶たちでした。すでに信心を失っていたものは、最後の駄賃にとばかりに寺にあった金目の物を売り飛ばすような輩も少なくなかったといいます。
桜井市・談山神社は、藤原鎌足(大織冠)を祀る霊地で、当初は法相宗、平安時代からは天台宗の寺院として存在しました。正式には多武峰妙楽寺でありながら、本尊は談山権現(鎌足)。専門的な神職は一人もおらず、僧侶が神事を行い、祝詞もあげていたのだとか。
神仏分離が命じられた際、多武峰は全山が復飾還俗して神主になることを決定しました。
それと時期を同じくして、神社禄制によって、従来神社や寺院が所有していた社領寺領は没収され、生活が困窮を極めます。還俗した元僧侶たちによって、講堂の本尊・釈迦涅槃像は25銭、仏画は25本が一括して25銭で売り払われるなど、とんてもない事態が巻き起こったりしています。
これ以外にも日光、羽黒山、石清水、日吉、南都などの事例が掲載されていますが、それぞれ事情は違えども、痛ましい限りでした。寺院側の内部崩壊というべき面も多く、痛ましい廃仏毀釈の事件は決して外的な要因だけではなかったことがよく分かります。
この当時の僧侶は官僚化していて、混乱する世相に振り回されるばかりで(真宗門徒は例外だとか)、この時期に天理教や金光教が誕生するのも必然だったのかもしれません。
混乱の要因を若入りやすく解説してくれる良書でした。興味のある方はぜひ!