ヤマト政権の一大勢力・佐紀古墳群 (シリーズ「遺跡を学ぶ」093)
平城宮跡北側の巨大古墳群「佐紀古墳群」について分かりやすく解説。さすがのスケール!
平城宮跡の北側に広がる、巨大古墳群「佐紀古墳群」について、分かりやすく淡々と解説したもの。「遺跡を学ぶ」シリーズの最新刊です。
山辺・磯城古墳群(筆者の呼び方)と、百舌鳥古墳群・古市古墳群の間を繋ぐ時期に築造されたもので、歴史を紐解いていくと、繰り返し盗掘被害を受けたり、被葬者が二転三転したり、とても興味深く読めました。
説明文:「平城宮の北方に広がる佐紀丘陵に、数世代にわたって造営され続けた巨大な前方後円墳が並ぶ。巨大な古墳はすべて陵墓に治定され調査できないが、周辺の古墳を含めて一基ずつ丹念に探訪し、古墳時代前期から中期にかけて力を振ったヤマト政権内の一大勢力を追究する。」
佐紀古墳群(一般的には佐紀盾列古墳群とも)に含まれるのは、佐紀御陵山古墳(日葉酢媛命陵)、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)、五社神古墳(神功皇后陵)、市庭古墳(平城天皇陵)、ウワナベ古墳、コナベ古墳、ヒシャゲ古墳、宝来山古墳(垂仁天皇陵)など、長い期間にわたって巨大な古墳が営まれてきました。
いずれも被葬者は時代によって変遷しているため、あやふやなものも少なくありませんが、巨大古墳として過去に何度か盗掘を受けているため、その内部の様子が知られているものも少なくありません。
たとえば、佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)などは、鎌倉時代に興福寺僧らによる盗掘が発覚し、みな流罪とされた記録があります。また、江戸末期の盗掘では、奈良奉行所・川路聖謨が厳しく取り締まり、盗掘犯の首謀者は獄死、奈良市中を引き回しにされたなど、厳罰に処されたとか。幕末の尊王思想の興隆は、奈良にもこんな影響を与えていたのです。
個人的に、まだこのエリアをゆっくりと見て回ったことがありませんので、この本の内容を思い出しながら、ぜひ訪れてみたいですね!