僧兵=祈りと暴力の力 (講談社選書メチエ)
武器を手に暴力も辞さない僧侶「僧兵」。延暦寺を例に不思議なメカニズムを解き明かした良書
『平家物語』に登場する、白河法皇が自分の意のままにならないものとして挙げたという「賀茂川の水、双六の賽、山法師(比叡山の僧兵)」の言葉にあるように、中世の寺院は「僧兵」の存在を抜きには語れません。
現代の人間には、僧侶が武器を手に暴力を振るうなどということは想像しづらいですが、本書ではその時代背景や実態などを、比叡山延暦寺の僧兵の例を中心に解き明かしています。学術的でやや難しい内容でしたが、とても興味深く一気に読了しました!
説明文:「祈りによって人々に安心と喜びをもたらす、仏法の徒たる僧侶たち。しかし、中世という時代がはじまるにつれて、彼らの中には武器をとって、合戦を引きおこし、人々に恐怖を与えた者たちがあらわれた。暴力と祈りの力をあわせもつ彼らは、いかなる原理のもとに行動したか。比叡山延暦寺を舞台に、多彩な「悪僧」たちが跋扈し、「冥顕の力」をもって世俗権力、社会とわたりあう姿を描き出す。」
奈良・興福寺と並んで「南都北嶺」と呼ばれ、中世の宗教の二大勢力だった比叡山延暦寺。宗内の激しい対立によって、三井寺と分裂したり、比叡山へ向かっていた時の権力者・藤原道長の一行を襲撃したりと、武力に訴えることも少なくありませんでした。
中世の日本では、宗教は国家の統制が緩められるのと引き換えにして、より自立して運営することを求められます。延暦寺などの有力寺院は寺領荘園という経済基盤を拡充させ、それを維持・拡大するため、管理だけではなく、武力で紛争を解決できる「大衆(たいしゅ)」と呼ばれる僧侶集団を何千名も抱えるようになります。
時代的な背景からして、世俗的な利益を守ろうとするのは理解できるのですが、武器を手に取った「僧兵」として暴力を振るったというのが、現代人の感覚からはどうも理解しづらいものがあります。
本書では「冥顕(みょうけん)の力」という言葉がキーワードになっています。
目に見えない「冥」と、目に見える「顕」。神仏の世界と人間の世界を繋ぎあわせられる存在として、宗教者は存在していました。現代とは違い、神仏の存在は大きく、特に貴族層は仏法の力を恐れていたため、僧侶たちが神輿や神木を担いで上洛する「強訴」といった手段が大きな効果があったのです。
「証拠や証人など関係ない。それを超える仏法の道理があるのだ」という主張パターンだったようです。
ちなみに、強訴という手法は、突発的で暴力的なものと考えがちですが、実際には交渉の末に行なわれる計画的な交渉術の一つだったとか。僧兵側もそれを止める武士側も、暴力は避ける傾向にあり、実際に合戦になったりすることは少なかったのだそうです。
10世紀に起こった承平天慶の乱(平将門と藤原純友の乱)などの影響から、力の時代へ入っていたという時代背景もありました。しかし、それと同時に、菅原道真の祟りが恐れられるような心持ちもあります。反乱が起これば、それを鎮めるために祈祷することが求められ、その霊験が誇示されるなど、貴族も民衆も現代人が想像するよりもはるかに信心深かったのです。
12世紀には、平家の南都焼討によって奈良の大仏さまが焼け落ちた際に、その復興のため国民的な勧請のムーブメントが巻き起こりました。そして戦国時代には、織田信長によって延暦寺が焼き討ちにあってしまいます。それらの歴史と合わせて考えてみると、何やら不思議な感じもしてきます。
中世の宗教や歴史を理解する上でも、とても興味深く面白い内容でしたので、ぜひ手にとってみてください!