ほとけを造った人びと: 止利仏師から運慶・快慶まで (歴史文化ライブラリー)
飛鳥~鎌倉時代まで、資料から「仏師」たちの系譜を通観した良書。読み応えありました!
飛鳥時代から鎌倉時代まで、仏像を作る「仏師」たちの系譜を、資料から丹念に解説した良書。奈良・飛鳥寺の飛鳥大仏などを作った止利仏師から、奈良時代の文献に見える国中連公麻呂、和様を完成させた大仏師・定朝、その流れを受け継ぐ院派・円派の仏師たち、鎌倉時代に市場を席巻した運慶・快慶などの慶派仏師まで、それぞれの時代背景なども合わせて紹介しています。
先日読んだ『仏像 日本仏像史講義 (別冊太陽スペシャル 創刊40周年記念号)』は、仏像の歴史を通観するには最適の内容で、そこでも仏師集団について系統だって解説されていましたが、本書はさらに丁寧に、さらに踏み込んでいます。
説明文:「「ほとけ」、すなわち仏像はいかなる人々によってなぜ造られたのか。止利仏師や定朝、運慶、快慶ら、飛鳥時代より鎌倉前期に活躍した仏師の姿や、彼らが率いた工房の活動を描き出す。仏像をより深く理解できる一冊。」
歴史上に仏像を作る工人らしき者が登場するのは、日本書紀の敏達天皇6年(577年)に「造仏工」という名前が観られるのが初出だとか。百済からの渡来人であり、法隆寺の諸仏などを手がけたと考えられています。その後、仏師は官の体制に組み入れられ、奈良時代の東大寺や興福寺などの大寺造営ラッシュにともない活躍していきました。
平安時代に入ると、東寺講堂の諸尊像、観心寺如意輪観音像、神護寺五大虚空蔵菩薩像など、乾漆を併用する手法が類似している木彫像が遺され、仏師集団の存在が連想されているにも関わらず、仏師たちの名前が資料に出ることは減っていきます。
その後、一木割矧造リや寄木造りなどの手法が登場し、康尚・定朝の親子を中心に、和様が完成。藤原道長らの依頼を受け、定朝様とまで呼ばれる仏像のスタイルを確立させます。この頃から、優れた仏師に官位が与えられるようになる、僧侶に準ずる地位が認められるようになりました。院政期に入ると、院を中心に膨大な仏像の需要があり、定朝の系譜を継ぐ工房が規模を拡大し、円派・院派として独占的に活動し、そこから別れた覚助の後継が奈良仏師を名乗り、有名な運慶・快慶へと続いていきます。
…という流れが詳細に解説されていて、その時代ごとの仏師の社会的な立場が分かって面白いんですよね。紹介されているエピソードをいくつかメモ代わりに記しておきます。
●院政期は円派仏師が活発に造仏活動を行っていた。白河院の法事では本尊は円勢による半丈六阿弥陀五尊像だったが、その脇侍を作った長円・賢円の兄弟が、それぞれ五尺と四尺五寸と像高をバラバラに作ってしまった。そこまで分業が進み、仏師たちは多忙だった。
●奈良仏師の初代・頼助は、判明している仕事のすべてが興福寺に関わるもの。興福寺が火災と再建を繰り返したため、ほぼ専属に近かった。1112年、彼は白河上皇を呪詛のための不空羂索観音像を作ったとして院より勘当されてしまう。興福寺の支配を強めようとする院との事件に巻き込まれたとか。
●源平の合戦で焼失した興福寺の復興にあたって、当初は院派がほぼ独占的に受注していたため、円派の明円と、奈良仏師の6代目に当たる成朝がこれに意義を唱えた。その訴えが認められて再配分されたが、成朝の主張は軽んじられ、結果的にほとんど参加できなかった。それに代わって傍流の康慶(運慶の父)が一気に表舞台へ登場してくる。
●運慶は興福寺の僧として「匂当」寺職についていた。1183年に書写した「運慶願経」などもあるように宗教者でもあった。
●快慶が施主となって造像した東大寺・僧形八幡神像。当時すでに大仏師だった運慶が「小仏師」として名を連ねている。重源との関係が深かった快慶は、宗教者としても尊敬されていたことの証ともとれる。
仏像が好きな人間にとっては、その歴史を概観するのに最適です。遺された資料から淡々と事績を拾い集めていきますのでドラマ性には欠けますが、最後まで興味深く読み終えました。時間をおいてまた読み直したいと思います!