仏師たちの南都復興: 鎌倉時代彫刻史を見なおす
「南都復興は慶派中心だった」の歴史感を見直す、丹念で読み応えのある一冊
南都に迫った平氏軍勢によって、東大寺や興福寺の堂塔がほぼ失われた南都焼討(南都焼亡)。国家的な規模となった復興事業の段階で、仏師の世界からは奈良を拠点に活動し、運慶・快慶らを擁した「慶派」が勢力を伸ばし、次第に他派を圧倒していった。
そんな慶派中心の史観を丹念に再検証し、違った見方を提示しているのが本書です。かなり学術的な内容で難解な部分はありますが、施主となった朝廷・摂関家・幕府・寺家の思惑や、仏師たちの勢力争い、そして運命のいたずらとしかいいようのない状況など、とても興味深い内容でした。
説明文:「平氏一門によって一夜のうちに灰燼に帰した南都(興福寺・東大寺)は、誰の手によってどのようにして復興されたのか。朝廷・摂関家・幕府・寺家それぞれの思想や意図を明らかにするとともに、多くの作例から復興造像と仏師たちの関連性を探る。造像の担い手を運慶ら慶派中心で論じる従来の学説に一石を投じ、新たな鎌倉時代彫刻史の地平を広げる。 」
一般的な解釈でいうと、「南都の復興事業の初期には定朝の流れをくむ仏師集団三派(院派・円派・慶派)がそろって参加していたが、後に運慶らの慶派の独壇場となった。慶派が培ってきた奈良古典の学習が活かされ、鎌倉期の彫刻に天平復興の色が濃くなった」となることが多いのですが、筆者はそれに異を唱えます。
大まかにまとめると、南都復興事業が大きな山場を超えた後半には、より重要度の高い京都・法勝寺の復興なども重なり、幕府も朝廷も関心が低下した。そのため、院派や円派は京都の仕事へ軸足を戻しただけで、三派が造仏の仕事を分け合っている状況には変わりはなかった、としています。
本書では、東大寺と興福寺の各堂塔について、どのような復興計画がなされたのかを丹念に検証していきます。重要な金堂などは優先度が高く、その造像には位の高い仏師が割り当てられていきます。そういった仕事を完遂すると朝廷から高い位を与えられるため、いわゆるおいしい仕事だったのです。
興福寺の北円堂などは復興の時期も遅めで、他と比べて重要度は低く、現在と当時では大きく認識が異なっていることなども指摘しています。この時期に慶派が手がけた南円堂や北円堂などの諸像は、今なお現存しているため、慶派の価値が高く見られがちですが、より重要な金堂の本尊などを担当した院尊などが過小評価されているともいえます。
意外だったのが、東大寺大仏の光背の価値についてでした。これは院尊が担当しましたが、光背につける仏の制作は、大仏殿の諸仏よりも格下の仕事と考えられがちですが、これは逆なのだと主張しています。大仏の光背は南都復興全体の中でももっとも尊いとされる、最上位の仕事だったと。こんな見方もあるんですね。
本書では、有名な仏像たちの造像のエピソードなども丁寧に紹介されています。決して誰にも読みやすい内容とはいえませんが、仏像好きな方は一読の価値はあるでしょう。