平城天皇 (人物叢書)
薬子の変で敗れた「平城天皇」の事績を記した一冊。平城京を愛した由緒正しいプリンスでした
偉大な桓武天皇の長男として生まれながらも、810年の「薬子の変」(現在は「平城太上天皇の変」という呼び方も)で敗れた、第51代「平城(へいぜい)天皇」の事績をまとめた一冊。天皇と太上天皇の時代を合わせても、わずか4年に過ぎない方ですから、スポットライトを当てた「人物叢書」シリーズはすごいですね(笑)
説明文:「父桓武天皇の政治を引き継ぐ一方、大規模官制改革、側近官体制の整備、地方行政の掌握など、矢継ぎ早に新政策を展開した。譲位後も太上天皇として尽力したが、薬子の変によって晩年は隠棲を強いられた。在位わずか3年だったが、その業績は後の王朝貴族社会を基礎付けるもので、生まれながらの天皇として一身に国家を担った悲劇の生涯を追う。」
平城京から長岡京・平安京へ遷都を実現した桓武天皇の時代は、多くのライバルが粛清されていたた時代でもありました。その長男として生まれた平城天皇(安殿親王)は、生まれながらにして、将来、天皇の座につくことを疑われなかったような立場の皇子だったそうです。桓武天皇の死後、ついに即位しますが3年で退位。太上天皇となって平城宮へ戻り、そこで薬子の変を起こすも果たせず、そのまま表舞台から姿を消していきます。
平城天皇についての歴史書の記述をみると、精神的な疾患があり、執政者としては不適切だったという印象を受けがちです。このイメージは、薬子の変で対立した張本人の、第52代の天皇であり実の弟である嵯峨天皇の時代に編纂された『日本後紀』によるところが大きいのだとか。どうしても嵯峨天皇寄りの記述にならざるを得ず、信憑性に劣るのだそうです。
本書では、桓武天皇の皇太子時代、天皇の座にあった時の政策などにページが多めに割かれていて、薬子の変についての考察は少なめです。「太上天皇に退きながら、絶対的な天皇へ楯突いた」というイメージがありますが、この両者の力関係はほぼ等しく、天下を二分する存在だったとか。そんな方々のお家騒動を収めるために、藤原仲成・薬子の兄妹が悪者として仕立てられたという面もあったことは覚えておきたいと思います。
私のような奈良側の人間からしてみると、平安京へ遷都された後も、平城京へ戻ってきてくれた方ですし、万が一このクーデターが成功していれば、今でも寧楽の都が日本の中心だった可能性まであるんですから、ちょっと肩を持ちたくなる存在です。
余談ですが、平城天皇の陵墓は奈良市佐紀町の「楊梅陵」と治定されていますが、この古墳は平安時代にはすでに造られていなかった前方後円墳であったことが判明しており、別のところに埋葬されている可能性が高いそうです(Wikipedia)。
天下に背いたとされる薬子の変の後も、平城天皇は太上天皇として平城京に静かに暮らし続けました。しかし、東大寺の双倉(ならびくら)に収められた宝物を、嵯峨天皇から買い上げた記録が残されたりするなど、特別な存在として敬われていたようです。
なお、『古今和歌集』巻ニ春歌下には、平城天皇の御歌「古里と なりにし奈良の 都にも 色はかはらず 花はさきけり」という歌が収められています。どんな気持ちでこの歌を詠んだのかと思うと、ちょっと切ないですね。
一般的なイメージはあまり芳しくない方ですが、これからも色々と調べてみたいと思います。