吉田神道の四百年 神と葵の近世史 (講談社選書メチエ)
秀吉や徳川からも頼られた「神使い」吉田神道の栄枯盛衰の歴史。読み物として面白いです!
戦国から江戸時代にかけて、日本神道の中心的な存在であり続けた「吉田神道」の栄枯盛衰の歴史を読み解いた一冊。私はこの頃の時代背景には疎いのですが、日本の神道が現代的なものへと変質していく過程を描いた物語として、とても興味深く読めました。それほどややこしい専門用語も登場しませんので、とても読みやすかったです。
説明文:「徳川家康のブレーンとして名高い金地院崇伝曰く、「神ならば吉田存ずべき儀」。幕府の権力が直接及ばない「神」の領域を、「吉田の神主」たちは、いかにして手中に収めていたのか。近世史の一断面として、神祗管領長上吉田家の盛衰を見通す。秀吉も、義満も、徳川将軍たちも頼った「神使い」、その盛衰を描く歴史学。」
豊臣秀吉の娘が病気の際に、徳川家光が伊勢踊りの流行に困った際に、頼りにされたのが「神使い」と呼ばれた吉田神道の神主たちです。もとは奈良から京都へ分社された春日神社に過ぎませんでしたが、天皇を巻き込み、当時は混乱状態にあった伊勢神宮の御神体が空から舞い降りた地と喧伝し、当時のパワースポットともいうべき「吉田山斎場所」を作り上げます。簡単に言うと、すべての神さまを支配下に収めたような巨大な存在に成り上がったのです。
その力の源泉は、まずは人々からの願いを祈祷によって叶えること。すべての神へと通じる一族とされたのですから、吉田へ頼めば安心ということです。「鎮札」などを発行して庶民に分け与えていました。
さらに、全国の神々に神位を保証する「宗源宣旨」を授けるようになると、神社の頂点へと君臨したかのような存在まで高められます。それまでは全国にある神社を統べるような組織は存在していませんでしたが、その先駆けになったとも評されます。時の権力者たちが、「神のことは吉田に」と任せておけるような存在になったのです。
しかし、後にこうした独占的な存在は崩れ、吉田にとって変わろうとする者たちとの争いへと発展していったりするんですね。こうした流れは、歴史的な読み物としてもとても面白く、最後まで飽きずに読めました。
また、中世の神道・仏教に関する記述もとても興味深かったです。
●延喜式に記載されたような神社でも、江戸時代には、仏教教団の力に押されて衰えていた。全国のお社も、それがどの神さまをお祀りしたものなのか不明になり、後から適当に判断したものも少なくなかった
●応仁の乱のころ、宗教者たちの規律も乱れ、庶民の尊敬も薄れていた。「高野聖に宿貸すな 娘取られて恥かくな」という俗謡があったほど。山伏などに対して、お金をせびり娘や妻を寝取る存在だというイメージがあったとか
長い間、仏教の下に置かれていた神道が、組織化し、同時にその裏側でビジネス化する過程は、ある意味では当然のことですし、ある意味では醜悪でもあります。これも近代宗教史の一面ですね。とても興味深い内容ですので、気になる方はぜひ!