古代壁画の世界―高松塚・キトラ・法隆寺金堂 (歴史文化ライブラリー)
高松塚やキトラ古墳、法隆寺金堂など古代の「壁画」を歴史や美術から比較。面白いです!
奈良県明日香村の高松塚古墳・キトラ古墳の壁画や、斑鳩町の法隆寺金堂の壁画など、古代の「壁画」について、歴史や技術など特徴を指摘し、壁画が描かれた当時の東アジア文化圏の中の位置づけを探った一冊。やや専門的な記述はありますが、全体的にとても分かりやすく、飽きずに読み進められました。
説明文:「壁画はなぜ描かれたのか。高松塚古墳、キトラ古墳、法隆寺金堂…。その意味を追究する。」
本書で取り扱う壁画は、高松塚古墳・キトラ古墳・法隆寺金堂の他、焼失した寺院壁画が見つかった鳥取県米子市の上淀廃寺のもの、さらに時代を下った平等院鳳凰堂や醍醐寺壁画などまで登場します。さらに古代の壁画を描いた画師(唐から帰朝した黄文本実(きぶみのほんじつ)など)の存在まで言及しており、古代の壁画という観点からここまで広がりが出てくるとはちょっと意外でした。
高松塚古墳の壁画は、飛鳥美人を含む男女群像が特徴ですが、服装から考えると、どうやら706年~719年当時のモードだと解釈されているとか。
また、高松塚の壁画の配置について、「一切背景のない画面に全体構図もなく、日月象・四神図・男女群像の各モティーフを相互の位置関係を無視して配置して描くという、空間意識の欠如はまさに日本絵画の特質そのものである」という面白い指摘がありました。天文図など、当時の唐の伝統に従っていながら、その表現方法はすでに日本的に変換されていたんですね。
一方のキトラ古墳の壁画は、男女群像が十二支像へ変化し、青龍と白虎の尾が右足に絡まるように描かれる、四神がお互いの尾を追うような向きに配置されるなど、高松塚古墳とはやや時代が下った特徴が現れるそうです。それぞれを古代中国や朝鮮半島の遺物、また正倉院宝物などと比較していくことで、どの時代の図をモチーフにしたのかが比較的はっきりと分かるのも面白いですね。
そんな調査結果から、筆者はそれぞれの被葬者の予想も行なっています。一般的に天皇や皇族の墓と思われがちですが、天皇陵には壁画が描かれないのだとか。そこで、規模がやや小さめ・中心部からやや離れるなどの特徴を考え、唐の皇帝の墓の周りに地方豪族や官僚の陪葬墓が多く築かれたことからも、壬申の乱で功のあった新興氏族や帰化系氏族のものではないかと予想しています。
また、大宝律令に見られる画師たち(中務省の画工司(えだくみのつかさ))の身分についての記述も興味深かったです。8世紀半ばにはこの組織は約70人体制で、トップの官位は「正六位上」。医博士・天文博士・陰陽博士・漏刻博士・按摩博士・馬医などよりも身分が下で、染師などよりも身分が上だったとか。古代の階級社会の中で、渡来系が多かった画師たちがどのようなランクにいたのかを想像すると面白いですね。
古墳の壁画と、法隆寺などで描かれた寺院の壁画は、どうしても別系統のものと見がちですが、当時の大陸の文化の影響を受けた、同じ文脈のものと考えると理解しやすいんですね。時代的にも比較的近いですし、新たな視点が得られたように思います。
余談ですが、間もなくキトラ古墳の石室が実際に拝見できる最後のチャンスである「平成25年 夏の一般公開 国宝 高松塚古墳壁画 修理作業室の公開(第10回)及び 特別史跡 キトラ古墳石室の公開」(イベント名が長い!)が開催されます。その予習のつもりで本書を読みましたが、肝心の当選発表が遅れていて、見に行けるかどうか分からないという…。
落選してたとしても、この本は十分に楽しく読めましたから、文句はありませんがw