藤原仲麻呂がつくった壮麗な国庁・近江国府 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
大規模な国庁跡、12棟も連なる倉庫群、古代の瀬田橋。琵琶湖の南端は濃いですね!
古来から交通の要衝として栄えた近江国。琵琶湖の南端の瀬田橋付近にあった、巨大な国庁「近江国府」の発掘調査のドキュメントです。
この一帯は、東海道・北陸道・東山道などが交わり、壬申の乱や藤原仲麻呂の乱の舞台にもなってきた土地。中央政界で重きをなした、藤原武智麻呂から仲麻呂へと続く藤原南家が、近江の国守を兼任してきました。重要視されてきた土地だけに、国府も大規模です。平安時代には打ち棄てられ、所在地も文献の中でしか分からなくなっていましたが、20世紀の初頭から発掘調査が始まり、次第に立派な8世紀の国府の建物跡が明らかになっていきます
説明文:「古代、交通の要衝の地であった近江国。その国庁は琵琶湖の南、瀬田川東岸に、唐の長安城を模したかと思われる堂々たる威容をもってそびえ建っていた。奈良時代中期の大政治家、藤原仲麻呂が国守のときに造営した豪壮な国府の姿が、発掘調査によって明らかとなる。」
調査結果によると、建物の配置は、中央に正殿、その背後に後殿、正殿の両翼に東西の脇殿が伸び、周囲を築地で囲む形でした。調査が始まった段階では不明でしたが、明らかに寺院跡とは違った配置ですね。
さらには、近くの惣山遺跡からは、南北300メートルにもわたって連なる、巨大な倉庫群12棟が発見されています。大きな高床式の倉庫がなぜ12棟も必要だったのかは、「近江の国あった12の郡に対応するものか」などと想像されるものの、はっきりとした理由は不明です。これだけの規模になると、当時の威容を想像するだけでも圧巻ですね!
これだけでも面白いのですが、その周辺では瀬田川の開発工事にともなって古代の瀬田橋の遺構が見つかったりもしています。大量の石を敷き詰めた土台の上に、六角形の橋脚が見つかるなどしています。同様の橋脚は朝鮮半島にしか見つかっていないユニークなもので、構築材2点の年代測定をしたところ、548年と607年という年代が得られたのだとか。紛れもなく古代史の舞台になった瀬田橋で、壬申の乱の時代のものである確率も高いのだそうです。
これだけの規模を誇った近江国府ですが、全国の律令制度の崩壊期にあたる10世紀代、大地震で倒壊してしまい、以降建てなおされることはありませんでした。古代の国庁とっていもイメージしづらいものですが、本書では現在判明している事実が分かりやすく解説されています。かなり地味な内容ですが、興味がある方はどうぞ!