斉明女帝と狂心渠(たぶれごころのみぞ) (奈良の古代文化)
大規模工事を好んだ女帝・斉明天皇の時代。国家建設の一大プロジェクトを検証した一冊
大規模工事を好み、人々の生活を苦しくしたとされる古代の女帝「斉明天皇」(在位 655年~661年)。蘇我本宗家の倒した乙巳の変の時の天皇であり、一度は退位して再び天皇位につく「重祚(ちょうそ)」を初めて行ったことでも知られています。
「日本書紀」によると、斉明天皇は香山の西から石上山まで渠を掘らせ、舟二百隻で石上山の石を運び、宮の東の山に積み重ねて垣としたことから、人々は『狂心の渠(たぶれごころのみぞ)』とそしった、という記述があります。この失政を咎めようとした有間皇子が謀反を企てたとされたり、混乱の多い時代でした。
本書では、そんな斉明天皇の時代の謎を解いていきます。未だに事実が明らかではないことも多いため、筆者の推論を交えている部分も多いのですが、とても興味深く読めました。
本書の大きな章立ては以下のようになっています。
●宝皇女の生きた時代─それは「飛鳥維新」だった
●狂心渠は天理まで通じていた
●「狂乱の斉明朝」の正体
●百済大寺は川の寄り集まる城上(きのへ)にあった
●牽牛子塚は本当に斉明陵か など
正直なところ、文献に登場する地名と現在に残る地名のすり合わせや、古代の大和の水運に関する項目などは、私が奈良の地理に疎いため、よく理解できたとは言えません。川の流れなど、もっと分かりやすいマップのようなものがあると助かったのですが、手元に広域の地図などを置いて読むと、理解が進むかもしれません。
全体的にやや難易度は高めですが、古代の大和盆地がダイナミックに開拓されていく様子が伝わってきて、読み応えがありました。
個人的に興味深かったのが、「牽牛子塚は本当に斉明陵か」の項目です。宮内庁では、高取町にある「車木ケンソウ古墳」を斉明陵として比定していますが、2010年、明日香村の「牽牛子塚古墳」が八角形墳であることが判明すると、一斉にここが本当の斉明陵だという論調になりました。
しかし、この陵墓は周囲の敷石なども合わせると、合計500トン近いという大量の巨石を使用しています。いかにも大規模工事を好んだとされる女帝のお墓に相応しいと思いがちですが、日本書紀に斉明天皇が「人民を苦しめないよう薄葬にするように」という内容の遺言したとあります。
だから日本書紀は信用ならない…と単純に考えてしまいがちですが、本書では、斉明天皇が最初に葬られたのは岩屋山古墳であり、後の天武天皇時代に天皇家の権威を示すために立派なものに作り替えた、という説を紹介しています。なるほど!
また、最後に軽く「益田岩船(※橿原市にある巨石)が未完の斉明陵?」という説も提示されています。この石は花崗岩で、推定800トンもあるのだとか。そのため工作しかけたものの、より軽い凝灰岩を使うことになり、放置されて現在に至る…という論旨です。想像が広がりますね!
決して誰にでも分かりやすい内容ではありませんが、ディープな古代史を少しだけ親しみやすくしてくれる一冊でしょう。興味のある方はどうぞ!