大仏造立の都・紫香楽宮(しがらきのみや) (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
聖武天皇が大仏を造立した紫香楽宮。その規模や歴史を調査結果から分かりやすく解説
聖武天皇の不可解とも言える続けざまの遷都の末、一時は都がここに移り、大仏造営も行われた「紫香楽宮」。近江の山深い里に営まれた離宮の歴史と、発掘の最新成果を紹介する一冊です。この「遺跡を学ぶ」シリーズにしては、まだ比較的新しい天平時代の遺跡を扱っているため、とても読みやすいですね。
たぬきの焼き物で有名な信楽(しがらき)の土地には、奈良時代に聖武天皇が造営した「紫香楽宮跡」の石碑が立ち、多数の礎石が遺されています。江戸時代から研究は進められていましたが、20世紀に入ってからの調査で、ここは宮跡というよりは大規模な寺院跡(大仏が造立された甲賀寺跡)だったことが分かります。そして1970年前後、そこから2kmほど離れた水田から柱根3本が掘り出され(宮町遺跡)、調査が進められた結果、ここが正確な紫香楽宮跡だということが判明しました。
こうした調査が進む過程と、何が発掘され、木簡や歴史的な資料とすり合わせて行った結果が順を追って解説されており、とても臨場感があります。
第2章では、聖武天皇が紫香楽宮へ入る際に、おそらくは壬申の乱の際の天武天皇の足取りを辿るために大きく遠回りしたこと、そしてどこへ立ち寄ったのかの検証などが行われます。さらに、恭仁京・難波京への遷都の裏側なども、考古学的な観点から解説されています。
仮説として、聖武天皇は唐の長安・洛陽・太原の三都制に倣って、紫香楽京・恭仁京・難波京の三都制を敷きたかったのではないかという説が紹介されています。恭仁京の中を東西に木津川が横切っていますが、これは洛陽を模したものであるとか。これらの京跡の中でも紫香楽は最も小さく、国の首都機能をもたせるのではなく、大仏を中心とした仏都を作ろうとしたのではないかと指摘しています。
そして、大仏が紫香楽という山深い場所で行われようとした理由は、洛陽に倣った・風水的な理由からなどの他に、藤原京・平城京の造営のため都周辺の木がすでに伐採されており、資材や燃料が不足したためではないかとしています。
さらに、大仏造営中の紫香楽では火事が頻発し、それは庶民たちが不満を表明するために火をつけたのだという考え方が一般的です。しかし、この時期はたくさんの邸宅を建築するため、大仏を造立する銅を鋳造するために、大量の木炭が必要となり、木々の伐採と炭造りなどのために火災が起こりやすい環境だったことも紹介されています。
結果的には、大地震が発生して造像途中の大仏は崩れ去り、また平城京へ戻ることになります。聖武天皇の選択は全て奇行と見られがちですが、決してそうとばかりは言い切れないようです。今では紫香楽宮跡(甲賀寺跡)は礎石しか残っていませんが、そんな夢の跡のロマンを感じるために、また行ってみたくなりました!