
大安寺の歴史を探る 大安寺歴史講座2
謎の多い大安寺の歴史をわかりやすく。いろんな気づきがありました!
謎の多い大寺院「大安寺」の歴史を、発掘調査の結果などから解説した一冊。「奈良の名所」を豆知識的に紹介した『今昔 奈良名所』と同様に、奈良市埋蔵文化財調査センター所長の森下惠介さんのご著書です。専門的な用語なども登場しますが、ややこしい内容をとてもわかりやすく描き、最後まで楽しく読めました。
「内容紹介」より
大安寺の歴史には謎の多いのですが、716年(天平18年)に僧綱の名によって作成された「大安寺伽藍縁起并流記資材帳」という創建の経緯を記した書物が現存しています。(重文。国立歴史民俗博物館所蔵)。法隆寺や西大寺のものは断片しか残っていませんが、大安寺のものは完全な形で現存しているのだとか。
ここには「大安寺の始まりは聖徳太子の熊凝精舎だった」という、有名な記述がありますが、これも疑問が多いのだそうです。しかし、大安寺の前身である「百済大寺」が、天皇家が初めて建立した寺院であり、都が遷るとともに高市大寺、大官大寺などと名前を変えながらも、常に大王家の寺として、壮大な規模を誇っていました。
百済大寺の跡地をみられる吉備池廃寺跡からは、壮大な規模の塔跡(おそらく九重塔)などが見つかっています。伽藍配置としては法隆寺式となりますが、百済大寺の方が時代が先のため、大王が作った大寺を参考に法隆寺が建立された可能性もあるとか。
ちなみに、この時代の公式な文章には、寺名を書く際には真っ先に大官大寺が挙げられ、川原寺、飛鳥寺などが続く形で統一されています。寺格がもっとも高かったことの現れです。「続日本紀」でも、奈良時代中頃までは大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の順に記載されいたのだそうです。(平安時代には、東大寺、興福寺、元興寺、大安寺の順に)
平城京遷都の後も、大安寺は一大仏教センターとして機能しました。その伽藍は、「僧房」(僧侶が居住する建物)が講堂の三方を取り囲む「三面僧房」であっただけではなく、それがすべて三重になっていたとか。僧侶の数は877人と、千人近いお坊さんがいたそうです。
さらに、大安寺に入った道慈が大安寺の伽藍設計に大きく関与したこと、天智天皇系の寺として重要視され、光仁・桓武天皇の時代にも西塔の建築などが続いていたことなど、さまざまな歴史が紹介されます。
大安寺周辺の発掘の記録を中心に丹念に語られていきますが、そのスケールの壮大さに驚きます。しかし、現在もまだ疑問とされる点も多く、かつての大寺院の全容が解明された訳ではありません。これからの成果がますます楽しみになる一冊でした!