大仏再建―中世民衆の熱狂 (講談社選書メチエ)
困難を極めた中世の大仏再建。大勧進職・重源上人を取り巻く時代背景を丹念に追った良書
1180年(治承4年)、平氏の南都攻めによって炎上した奈良の大仏。その再建の責任者となったのが、当時61歳と高齢だった重源上人で、15年にわたって朝廷や武士との折衝を重ね、庶民への勧進を指揮し、大事業を成し遂げます。
本書ではさまざまな資料から、困難を極めた中世の大仏再建の背景を書き記しています。源平の争乱が続いている時代に、よくこの難事業が完遂されたものだと、改めて感心してしまいました。
説明文:「治承四年十二月、平氏の南都攻めで大仏は炎上した。飢饉、地震、大火、源平の争乱。末法の予感におののく人びと。祈りの声が巷に満ちたとき、一人の僧、重源が再建の「勧進」に立ちあがった。貴族、武士、庶民のすべては熱狂し、新しい信仰が生まれてくる…。古代の終焉と中世の到来を告げた十五年にわたる大事業の実態が、いま浮かびあがる。」
本書では、平安末期から鎌倉初期にかけて、焼け落ちた奈良の大仏様の再建事業の様子を丹念に追っています。勧進職に当たった僧・重源の出自や経歴(武家出身で三度も宋に渡っている)の解説から、その当時の社会情勢、朝廷を牛耳っていた上皇、藤原氏の氏の長者や源氏の棟梁など、誰もが大仏再建に関心を寄せ、大きな事案だったことを示しています。
一連の流れは、「大仏焼失→平氏滅亡→大仏再建」と単純に把握しがちですが、重源が勧進職に就いてからも、源平の合戦は続いていますし、さらに大飢饉と大地震も起こっています。鎌倉幕府が成立した後も、奥州藤原氏との戦があったり、全国へ守護地頭が置かれるようになり、重源の活動を阻害したりもします。
さらには、同じく南都焼討で焼失した興福寺の再建事業も平行して進められましたし(藤原氏が中心となっていたため、大仏再建にはそれほど資金は回せませんでした)、東国の庶民から篤く信仰された長野・善光寺の再建もこの時期でした。
そんな状況にありながら、重源は時の権力者たちと折衝を重ね、時には辞意をもらしたり、急に姿をくらましてみたり、伊勢神宮の神威を借りたりしながら、あの手この手で大仏再建の事業を推し進めていきます。ものすごい調整力ですね。
開眼供養の際は、まだ完成途中であり、お顔の部分だけ金色だったため「満月の御顔」と評されたり、雨にたたられたり、この時代としては珍しく民衆も参加できたため、かなり荒っぽい雰囲気になって貴族の不興をかったり。その様子がリアルに感じられました。
公家・武士・民衆が一体になって大仏再建に取り組み、その熱は鎌倉新仏教の広がりの下地となったといいます。その雰囲気が伝わってくる良書でした。
最後にメモ代わりに。
重源からよく仕事を依頼されていた仏師・快慶。「安阿弥陀仏」という号で造仏していた記録が遺っています。その当時、仏師はまだそれほど身分の高いものではありませんでしたし、自ら阿弥陀仏を名乗ることに違和感を感じていました。
こうして阿弥陀号を名乗るのは、重源以前から行われており、重源と親しい勧進グループというようなメンバーもみなこう称したのだとか。重源自身は「南無阿弥陀仏」で、他にも空阿弥陀仏、法阿弥陀仏などもいたそうです。快慶と並び立つ大仏師・運慶は、やや距離があったのかこうした号は与えられなかったようです。覚えておきます!