中世の奈良―都市民と寺院の支配 (歴史文化ライブラリー)
興福寺が支配した中世の奈良は、信心深い宗教都市でした。盟神探湯もやってたとか!
鎌倉~室町時代にかけて、現存資料の少ない中世の奈良の様子を取り上げた一冊。図書館で借りてきた渋い本ですが、意外と読みやすくて面白かったです!
説明文:「中世の奈良では、支配する寺院の衆徒と、支配される民衆は、それぞれ自治組織を形成し、対立しながらも、金を融通する講や雨乞い、祭や芸能を一緒に営んでいた。宗教都市の繁栄と、そこに生きる人々の生活・行動を描く。」
日本の中世というと、大河ドラマの中でしか観ない世界ですが、本書の冒頭に面白いエピソードが紹介されています。鎌倉時代、二度の蒙古襲来を神風によって退けた際、人々は武士たちが前線で戦ったのと同時に、天上界の神々も蒙古の神々と戦っていたと考えたそうです。それを祈祷した寺社仏閣がまさに神風を呼んだのですから、宗教施設の大手柄であり、その恩賞として全国の寺社の建造や修理の際には、(朝廷ではなく)幕府から多大な寄進がされるようになったのだとか。現在よりも人間と神仏との距離は近かったんですね。
そんな日本の中でも、古都・奈良は興福寺が支配する、全国でも特異な宗教都市でしたから、より宗教色は強かったでしょう。遺された資料は決して多くありませんが、興福寺大乗院の尋尊(じんそん)が記した日記「大乗院寺社雑事記」などを中心として、そこに記されたことを紹介しています。奈良の寺院の中枢部にいた方が記したものですから、内容は偏っていそうなものですが、領地の庶民を使役した様子(物の運搬、工事の人夫など)が記されています。
現在の奈良市は、南都七郷(興福寺領)・一乗院郷と大乗院郷(それぞれ興福寺の有力院家の領地)・元興寺郷(元興寺領)・東大寺郷(東大寺領)と分かれて支配されていたそうです。平安末期の資料でも奈良の中心部が栄える様子が残されていたり、興福寺の支配のもとで独自のポジションを占めていたのでしょう。
また、庶民の間で富くじ的なルールも交えてお金を融通しあう「憑支(たのもし)」についても詳しく触れられています。庶民の互助会のような役割だけではなく、複雑な損得勘定が絡んだゲーム性も導入されていたと考えられ、福智院や新薬師寺あたりの郷で開催された例が紹介されています。
面白かったのは、この時代は殺人などよりも盗みがより重罪扱いされており、基本的には死罪に、さらに住んでいた家屋が解体されて材木が没収されるのだとか。これは財産の没収という意味ではなく、盗みという重罪を起こしたケガレを清めるためのことなのだとか。商売人同士の争いを解決するために、この時代でも熱湯に手を付けて小石を取り出したりする「盟神探湯(くがたち)」が行われていたというのですから、中世の人々は私たちのイメージ以上に信心深かったんですね。
この時代の奈良の様子について書かれた本はそれほど多くありません。もうなかなか手に入らないようですが、それほど難しくありませんし、楽しく読めました。興味のある方は図書館などで探してみてください!