2014-08-14

奈良にうまいものなし?志賀直哉の随筆『奈良』を読んで

奈良にうまいものなし?志賀直哉の随筆『奈良』を読んで

奈良に13年間も暮らした文豪「志賀直哉」。彼が随筆『奈良』の中で書いたとされる「奈良にうまいものなし」という言葉が有名ですが、正確には「食ひものはうまい物のない所だ」でした。もとの文章を読んでみると、彼の奈良への愛情がひしひしと伝わってきます。奈良に関するエッセイなどから抜粋してみました。


「奈良にうまいものなし」と書いたのか?

かつて奈良に暮らした文豪「志賀直哉(しがなおや)」(Wikipedia)。彼がエッセイに書いたとされる「奈良にうまいものなし」という言葉は、発表から80年近く経った今でも引用され続けています。

この言葉自体がひとり歩きしている感はありますが、元となった文章をご存じない方も多いでしょう。私もその一人でしたので、調べてみた内容を簡単にご紹介してみます。


随筆『奈良』は奈良愛あふれる文章です

志賀直哉の随筆『奈良』-02

この文章は、1938年(昭和13年)に発表された随筆『奈良』からのもの。わずか4ページほどの短い文章で、奈良県観光課が発行した雑誌に寄稿したものです。県から依頼された文章に、奈良を腐すようなことを書いてしまうのもすごいですが、それが80年も経ってまだ引用されているのですから、さすが文豪ですね(笑)

ただ、志賀直哉の言葉は、なぜか「奈良にうまいものなし」として広まっていますが、正確には「食ひものはうまい物のない所だ」です。


食ひものはうまい物のない所だ。私が移つて来た五六年前は牛肉だけは大変いいのがあると思つたが、近年段々悪くなり、最近、又少しよくなった。此所では菓子が比較的ましなのではないかと思ふ。蕨粉(わらびこ)といふものがあり、実は馬鈴薯の粉に多少の蕨粉を入れたものだと云ふ事だが、送つてやると、大概喜ばれる。豆腐、雁擬(がんもどき)の評判もいい。私の住んでゐる近くに小さな豆腐屋があり、其所(そこ)の年寄の作る豆腐が東京、大阪の豆腐好きの友達に大変評判がいい。私は豆腐を余り好かぬので分からないが、豆腐好きは、よくそれを云ふ。

志賀直哉『奈良』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


この段落を読むだけでも、かなり印象は違ってくるでしょう。

志賀直哉は、1925年(大正14年)から13年間も奈良に暮らしています。京都山科から奈良市幸町へ移り、1929年(昭和4年)に奈良市高畑へ住居「志賀直哉旧居(現 奈良学園セミナーハウス )」(紹介記事)を構えました。

奈良市高畑という地は、鎌倉時代から春日大社の関係者たちの豪邸が並んでいた閑静なエリアでしたが、江戸末期の大火、明治初期の廃仏毀釈によって衰退。売り払われた屋敷跡が寂しい姿になっていたとか。しかし、大正から昭和初期にかけて、画家や作家などの芸術家が次々と移り住み、芸術村のような様相を呈していたそうです。

志賀直哉は、いろんなところに「土地は関西の方が好きだが、人は関東の方が好きだ」という意味のことを書いていますので、地元の人たちとの付き合いがそれほどしっくりいっていなかったようですが、決して奈良の人や食べ物を一方的に腐しているわけではありません。

「派手な名物は見当たらないが、蕨粉や豆腐など、美味いものもある」

こんなニュアンスで述べているように思います。正直なところ、現在でもこうした傾向はあると思いますから、心して受け止めるべきなのかもしれませんね。


「今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいやうに美しい」

随筆『奈良』は、奈良に13年間も暮らした志賀直哉が、東京へ戻る直前に書いた文章です。

生涯に28回も引っ越しを繰り返したことで知られる方ですから、「三人の子供が六人になり、下の三人にとっては奈良は生まれ故郷となったわけである。」というほど長きにわたって同じ土地にとどまったのは異例で、様々な文章から奈良の土地への深い愛着が感じられます。

すでに家族たちは先に東京の家へ移っており、自宅の売却手続きなどのため、頻繁に奈良と東京を往復していました。


妻子五人ゐる自分の家にゐながら、二三日すると、矢も盾も堪(たま)らず、奈良に帰りたくなるのは不思議な所だ。

志賀直哉『奈良』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


東京のかへり、米原を越し、田圃の彼方(むこう)に琵琶湖が見えだすと、私はいつも、ああ帰つて来た、と思ふ。(中略)かういふ気持はこれから何年か続きさうな気がしてゐる。それ程、土地として何か魅力を持つてゐる。

志賀直哉『奈良』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


本人がいかに奈良の土地を好んでいたのかが分かる文章でしょう。

また、この他にもよくこんなことを書いています。

「奈良について、よく『冬寒く、夏暑い』と言われるが、そこまでではない」
「奈良の欠点は税金が高いこと。県や市がもっと裕福になればいいが、産業を盛んにするために煙突が多く並ぶようになって欲しくない」
「観光都市として発展するのが一番だが、奈良の人たちは来る人に打算を超えて親切だという気風が出来るといい」

関西へ移る際、移った後、よほど「奈良の冬は寒く、夏は暑い」と言われ続けたんでしょう。他の文章も含めて、何回も「それほどでもないよ」とやんわりと否定しています。それ以外の部分も、他所から移住してきた名のある文化人として、温かな視線が感じられます。


そして、「奈良にうまいものなし」などという言葉以上に有名になって欲しい、印象的な記述もあります。


兎に角、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残つてゐる建築も美しい。そして二つが互に溶けあつてゐる点は他に比を見ないと云つて差支(さしつか)へない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠が美しいやうに美しい。

志賀直哉『奈良』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


御蓋山(みかさやま)の紅葉は霜の降りやうで毎年同じには行かないが、よく紅葉した年は非常に美しい。五月の藤。それから夏の雨後春日山の樹々の間から湧く雲。これらはいつ迄も、奈良を懐ふ種となるだらう。

志賀直哉『奈良』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


旧都である奈良は、どこか時代に取り残された感があり、それだからこその美しさがあったのでしょう。これは今も昔も変わらないことです。志賀直哉を魅了した「名画の残欠」のような美しさを、ずっと守っていきたいですね。

紹介した随筆『奈良』は、『志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫』といった全集や、『志賀直哉随筆集 (岩波文庫)』に収録されています。図書館などで見つかると思いますので、ぜひ探してみてください。



(※なお、志賀直哉は死後100年を過ぎていませんので、著作権は生きています。フリーの青空文庫などでは見つかりません)


この他、奈良での生活を描いた文章も

この他、この全集には、志賀直哉が奈良について書いた文章がいくつか収録されています。

全部で4ページの『置土産』では、その当時話題になっていた若草山麓の自動車道の開設問題について、奈良公園をどうするかということまで踏み込んだ意見を述べています。


奈良県庁の中に公園課とゐふものがあって、奈良の公園に所謂(いわゆる)公園らしい施設をしたがる点、時に非常に困る事が起るのである。若草山麓に新しく自動車道を作らうといふのもそれであるし、其所(そこ)に料亭を作らふといふのもそれで、甚だ興醒(きょうざめ)のする事だ。

志賀直哉『置土産』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


それから奈良の人は先祖代々住んでゐる土地で、奈良を何となく自分達のものといふ気分で見てゐる風があるが、市中は兎も角も現在の公園、これだけの土地になると日本人は誰しも同じやうに吾々のものといふやうな気持ちで見てゐるから、此点私のやうな他所(よそ)から来た者の意見に対しても土地の人は寛大な気持で聴くべきだ。土地の人がさう考へるにしては奈良は余りにも立派で、一般的で、世界的に知られてゐる土地だからである。

志賀直哉『置土産』(「志賀直哉全集〈第6巻〉沓掛にて 豊年虫」より)


今も昔も、開発と保護、地元の意見と余所者の意見、いろんな対立があったことが伝わってきますね。

1ページのみの『奈良の桜』では、「桜の木の姿も花も面白くない」と切り捨てる一方で、秋の吉野の桜の紅葉に感銘を受けたことを綴っています。また、奈良が誇るべき草木として、杉・馬酔木(あせび)・櫟(いちい)・楓(かへで)・竹柏(なぎ)・藤・芝生(「こんないい自然の芝生も珍しい」とか)が挙げられています。

『大台ヶ原』というわずか7行の短文では、関西には高原の避暑地がない。そこで大台ヶ原を開拓してはどうか?」という意見を述べています。しかし、「土地が乾燥してゐるか、どうかが問題だが。(中略)実は、私はまだそこへは行って見てゐないのだが。」と。じつは大台ヶ原は日本有数の多雨地帯です。そんな奥地へ行く機会もなかったでしょうし、イメージで語られたのかもしれません。

余談ですが、『兎』という随筆には、奈良の自宅の庭でウサギを飼ったエピソードが紹介されています。「飼つて面白い動物とは思はなかつた」と素っ気ありません。「殖ゑるばかりで、食用にする気がなかったから、みんな春日の杜に放して了(しま)つた。その後、見かけた者もなかつたから、人か犬に捕られて了ったのだろう。」この時代ならではのおおらかさですね(笑)


『早春の旅』は奈良博で仏像鑑賞しています

余談ついでに、同じ全集の『志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月』に収められ、表題にもなっている『早春の旅』では、東京へ転居した後の昭和15年(1940年)、息子さんと京都・奈良・大阪・富山と旅する様子を描いています。

奈良の描写も興味深いのですが、京都で河井寛次郎に会い、大原孫三郎のところへ収めた棟方志功の襖絵について、河井寛次郎が「鉄斎以上ですよ」と高く評したことに違和感を覚えたこと、柳宗悦が以前に「木喰上人の仏像の微笑みを、推古仏以上だ」と言っていたことを思い出したことなど、文化人同志のリアルなやり取りが描かれていて面白いですね。

志賀直哉が奈良を訪れたのは二年ぶりのことです。


奈良はいい所だが、男の児を育てるには何か物足らぬものを感じ、東京へ引越して来たが、私自身は未だに未練があり、今でも或時小さな家でも建て、もう一度住んでみたい気がしてゐる。殊に去年の夏、苦しい病気で寝てゐる時には、矢も盾もたまらず奈良に帰りたかつた。

志賀直哉『早春の旅』(「志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月」より)


平城、西大寺、油坂、そして奈良。奈良に来ての最初の印象は不相変(あいかわらず)の奈良だと云ふ事だつた。ホテルへの途中、眼に入るもの総(すべ)て余りにも見馴れたものばかりだ。角の奈良漬屋、図書館、裁判所、武徳殿、師範学校、博物館、右に折れて一の鳥居から荒池、堤防のやうな荒池の路が前より広くなつた位で、総ては不思議なほど不相変であつた。然し又、公園の杜(もり)の上に高く、春日山を望んだ時には不相変いいところだとも思つた。

志賀直哉『早春の旅』(「志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月」より)


1940年の日本は、中国での戦火が拡大し、戦争へと突き進んでいた時期にあたります。以前と何も変わらず「不相変(あいかわらず)」に見える奈良の町は、心穏やかになったことでしょう。その当時の町並みが描写してあるのも面白いですね。

奈良へ着いた翌日、息子とは別れて一人で「奈良国立博物館」(当時は奈良帝室博物館)へ行きます。

その当時の奈良博は、各寺院で管理しきれなかった仏像などが多数寄託されており、(失礼な言い方ですが)仏像界のオールスターが勢ぞろいしたような状況でした。


東京に来て見られないものは、矢張り此所(ここ)の仏像群だ。推古、天平、藤原、鎌倉、各時代の代表的なものが此所にある。奈良に住んでゐた頃は何時でも見られるといふ気で、前を通りながら却々(なかなか)入らず、却(かえ)ってたまに行く京都の博物館に割りに行ってゐたが、然し今来て見上げる大きな仏像が静かに立並んでゐる中に立つと、何れも馴染深いものばかりではあるが、自(おのづか)らうたれるものを感じ、気がひき締まつた。

志賀直哉『早春の旅』(「志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月」より)


皆、正しい静かな姿で立つてゐる。入つた正面に秋篠寺の美しい梵天が心持(こころもち)首を傾げ、見下ろしてゐる。右手の細長いケースには大安寺の不空羂索観音、楊柳観音、薬師寺の十一面観音等が立つて居る。その先のケースに興福寺の十大弟子の一部。左のケースには唐招提寺の諸仏。次に矢張り興福寺の八部衆が幾体か立つてゐる。何れも仏像としてはお歴々で、それらが押黙つて立つ中に一人ゐると、一種快い圧迫を感ずる。中央の大きいケースには梵天と背中合はせに法輪寺の虚空蔵菩薩が此(この)お歴々を睥睨して立つてゐる。

志賀直哉『早春の旅』(「志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月」より)


当初は、鎌倉時代の仏像が、そして次第に推古朝の仏像に惹かれていましたが、その時でさえ、斑鳩町・法輪寺の虚空蔵菩薩像の姿だけは、その良さが理解できなかったとあります。背が低くて棒立ちで、顔立ちものっぺりと感じられて、若い頃は好ましく感じなかったのだそうです。

しかし、それはこれと背中合わせに法隆寺・百済観音像が安置されており、どうしてもそちらと比較してしまうため判断を誤ったとして、この日、その素晴らしさに感じ入っています。この2躯が一緒に展示されていたなんて、想像しただけでも身震いしますね!


推古朝といへば今から千三百年前、此像は其時から日本の歴史のあらゆる嵐を見て来てゐる。平重衡や松永久秀の南都炎上も法輪寺からならば眼のあたり望み見たわけである。そして、今はまた此像は未曾有の国難を見てゐるのだ。元兵が九州を犯した国難も知ってゐれば、法華堂の執金剛神が蜂になって救ひに出たといふ将門の乱も知つてゐる。千三百年来のよき時代も苦しい時代も総て経験してゐるのだ。此像は今の未曾有の時代も何時かは必ず過ぎ、次の時代の来る事を自身の経験から信じてゐるに違ひない。が、同時に其時代もどれだけ続くか、又その先にどんな時代が来るか、そんな事も思つてゐるかも知れない。然し如何なる時代にも此像は只この儘(まま)の姿で立つてゐる。執金剛神のやうに蜂になって飛出すわけに行かない像である。此世界がいつ安定するか分らないが、その理想を此仏像は身を以つて暗示してゐるかのやうである。

志賀直哉『早春の旅』(「志賀直哉全集〈第7巻〉早春の旅 灰色の月」より)


志賀直哉からこう評された「虚空蔵菩薩像(重文)」は、斑鳩町『法輪寺』におわします。世界遺産寺院「法隆寺」「法起寺」の近くですから、ぜひお詣りにいって、この文章を思い出してみてください!



高畑の『志賀直哉旧居』もご覧ください

奈良市高畑で志賀直哉が暮らした家「志賀直哉旧居」(紹介記事)は、現在は「奈良学園セミナーハウス」として利用され、内部の見学もできます(入館料 一般350円、中学生200円、小学生100円)。

好んでいた桂離宮をイメージし、京都の数寄屋造り棟梁に新築させたという、優雅で美しい建築ですから、ぜひ一度ご覧ください!

志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)-03

志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)-04

志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)-05

志賀直哉旧居(奈良学園セミナーハウス)-06










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