2012-09-09

『宮滝遺跡』と柴橋・夢のわだなどの万葉故地@吉野町

『宮滝遺跡』と柴橋・夢のわだなどの万葉故地@吉野町

古来から万葉歌人に愛された、吉野町宮滝にある『宮滝遺跡』の周辺の万葉故地を見て回ってきました。万葉集で詠まれたような有名な地名(夢のわだ・象山・三船山)や、後の時代の名所「柴橋」「二百文岩」など、見所はたくさんあります。夏場は川遊びの方が多いので風情には欠けますが、簡単にご紹介しておきます。


現在の『宮滝遺跡』は静かな原っぱです

吉野町にある「宮滝遺跡」(Wikipedia)は、縄文時代・弥生時代の集落遺構に、飛鳥時代・奈良時代の「吉野宮」「吉野離宮」の所在地であると考えられている場所です。異なった年代の遺構が狭い地域で見つかるのは、全国的に見ても珍しいそうです。



宮滝遺跡

宮滝遺跡からは、縄文時代の早期から弥生時代、飛鳥時代、奈良時代の遺構や遺物が多数出土します。これらの遺構や遺物の研究から、縄文時代ここで暮らした人々が吉野川下流域の人々と盛んに交流していたことがわかります。また、他の地域とはことなり弥生時代になっても稲作を積極的に取り入れない生活をおくっていたこももわかってきています。

この遺跡を特に有名にしているのは、古代最大の内乱といわれる壬申の乱で勝利し、後に天武天皇となる大海人皇子の挙兵地、持統天皇のたび重なる行幸の地として『日本書紀』などにみえる飛鳥時代の吉野宮の遺構や遺物などです。吉野宮は斉明朝に造営され、持統朝に拡張が行われたとかんがえられ、この案内板の辺りは、拡張された吉野宮の南端にあたると考えられています。また、集落の西側からは、聖武天皇によって奈良時代に造営された吉野離宮の建物・石敷き。石溝の遺構などが出土します。


Wikipedia「宮滝遺跡」の説明看板より


宮滝遺跡から見つかった遺物は、すぐ近くにある『吉野歴史資料館』に展示してありますので、こちらも合わせて立ち寄ってみてください。


現在の宮滝遺跡は、ただの広場のようになっていますが、ここに縄文時代の人々が集落を営み、飛鳥時代には聖なる土地として時の天皇が何度も行幸したのですから、歴史的に重要な場所であることは間違いありません。想像が膨らみますね!


宮滝遺跡周辺@吉野町-03

370号線から吉野川側すぐに「宮滝遺跡」があります。今は何もない原っぱに見えますが、ここからは縄文時代・弥生時代・飛鳥時代・奈良時代という、様々な年代の遺構や遺物が見つかっている珍しい地域です。古代の内乱「壬申の乱」の際に、ここで大海人皇子が挙兵したことでも知られています

宮滝遺跡周辺@吉野町-04
宮滝遺跡周辺には、万葉集などに詠まれた土地が多数遺されています。宮滝(柴橋・夢のわだ・二百文岩・おう穴)、象山、三船山など、全て歩いてまわれます

宮滝遺跡周辺@吉野町-05
学校跡地(現在は「吉野野外活動拠点施設」になっています)の前に建つ「史跡 宮滝遺跡」の石碑


夏の宮滝は川遊び客で混雑しています

年のはに かくも見てしか み吉野の
清き河内の 激(たぎ)つ白波
笠金村 万葉集 巻6-908
来る年ごとにこうして見たいものだ。吉野の清らかな河内の渦巻き流れる白波は。

723年、元正天皇の行幸に付き従った宮廷歌人・笠金村が詠んだ有名な歌です。持統天皇の時代を懐かしむような、後の年代に歌われた吉野讃歌で、今よりも激しく流れる吉野川の様子が目に浮かぶようですね。

そう詠まれた宮滝ですが、9月上旬でも川遊びの方の姿が多数見られました。私たちも吉野川に入ってみましたが、意外と水は冷た過ぎず、とても気持ちよかったです。もとから美しい吉野川ですが、ここまで上流に来ると素晴らしい透明度ですね。

しかし、宮滝遺跡近くの柴橋には、飛び込み防止用のフェンスが取り付けられていましたし、河原には立入禁止区域が設けられていました。路上駐車したり、直火で焚き火をしてみたり、本当にマナーの悪い人間が多くて辟易としました。静かな宮滝を味わいたい方は、夏場は避けた方がいいでしょう。


宮滝遺跡周辺@吉野町-06

すぐ近くの柴橋。欄干の上にさらにフェンスが取り付けられ、「このフェンスは、平成22年8月22日に遊泳者が端から飛び込む死亡事故があったため、飛び込み防止のため設置しました」とありました

宮滝遺跡周辺@吉野町-12
柴橋の説明。両岸に迫る岸壁は古くから奇勝とされ、万葉歌に詠まれ、文人墨客が多く訪れました。岩飛の名所とされ、泳ぎの達者な里の人間が、旅人に飛び込みの技を見せていた「二百文岩」もこの辺りです。岩原のところどころに見える大小の穴は激しい水流で開いたものだとか

宮滝遺跡周辺@吉野町-07
橋から西側を眺めたところ。この少し先が万葉歌に詠まれた「夢のわだ」です。白い岩が美しいですね。9月初旬の日曜日ということもあって、川遊びの方がたくさんいらっしゃいました

宮滝遺跡周辺@吉野町-08
東側を見ると、険しく切り立った崖のようになっています。「二百文岩」もこの先です。二百文岩とは、「『大和名所図会』には岩飛といって岩の上から川へ飛び込む人を見物する旅人の姿が描かれている。この見物料がいつしか岩の名前として残ったといわれている。」とのこと。現在は飛び込みは禁止されていて、係の方が注意していましたが、それを守らない人間も少なくないようでした

宮滝遺跡周辺@吉野町-09
柴橋の上流側。飛び込みによる死亡事故が相次いだため、一部が立入禁止になっています。マナーの悪い方が多いため、こんな無粋な様になってしまっいました

宮滝遺跡周辺@吉野町-10
川遊びの方たちがたくさんいらっしゃいました

宮滝遺跡周辺@吉野町-11
川面から。9月上旬でしたが、意外と水は冷たくないんですね。気持ちよかったです


大伴旅人が懐かしんだ「夢のわだ」も

我が行きは 久にはあらじ 夢(いめ)のわだ
瀬にはならずて 淵にもありこそ
大伴旅人 万葉集 巻3-335
私の(筑紫での)赴任期間もそんなに長くはあるまい。あの吉野の夢のわだよ、浅瀬なんかにならずに深い淵のままであっておくれ。

この歌は、60歳を過ぎて九州の太宰府へ赴任した大伴旅人(万葉集の編集者と目される大伴家持の父)が、宴会の席上で奈良の都への望郷の念を詠んだものです。五首のうちの二首は吉野に関するものでした。今のように交通機関が発達していない時代に、60歳という老齢で故郷から遠く離れた土地へ赴任した大伴旅人が、奈良を懐かしんで詠んだ歌は、どれも心に響きます。

この歌に詠まれた「夢のわだ」の位置は、現在ははっきりとは分かっていないようですが、柴橋の少し下流の、象の小川が流れこむところをそう考えているようです。この辺りは白い岩肌が美しく、また静かな時に来てみたいですね。


宮滝遺跡周辺@吉野町-13

柴橋から少し下流側へ行くと「宮滝展望台」という場所があります。そこから宮滝の美しい川辺が見下ろせます

宮滝遺跡周辺@吉野町-14
白い岩が美しいですね。こちら側にも少ないながらも川遊びをしている方の姿が見られました

宮滝遺跡周辺@吉野町-15
吉野川へ流れ込んでいる小さな瀬が見えますが、あれが「夢のわだ」と考えられているところのようです。この上流は「象(きさ)の小川」と、万葉歌人たちが詠んだ地名がずらずらと登場します


歴史スポットを紹介した各種観光マップも

吉野の宮滝周辺を歩いていたら、いくつも観光マップを記した立て看板が見られます。これらは全て同じものかと思っていたら、別物なんですね!「大海人皇子の道」「吉野万葉の道」「義経の道」などがあり、歴史的なスポットが集まった地域だということが分かります。

また、古来からの名所や近代遺産、伝統工芸の職人さんまでも紹介する「風水百珍の里案内図」というものもありました。こんなマップに従って吉野散策をするのも楽しいと思いますので、ぜひ探してみてください!


宮滝遺跡周辺@吉野町-01

宮滝周辺には、「吉野歴史ウォーク」という看板がいくつか見られます。これは「大海人皇子の道」で、壬申の乱の際にたどったと考えられるルートを案内しています

宮滝遺跡周辺@吉野町-02
吉野歴史ウォークの別バージョン。「吉野万葉の道」

桜木神社と象の小川@吉野町-17
こちらは桜木神社の近くにあった「義経の道」。よくできたマップなので、参考になります。どこかで冊子などで配布しているかもしれませんので、探してみてください

宮滝遺跡周辺@吉野町-16
これも宮滝にあった「風水百珍の里案内図」。説明によると、風水百珍とは宮滝周辺(宮滝・喜佐谷・御園・菜摘)地域で、古代から知られている景勝・景観のことだとか。滝つ河内・二百文岩・夢のわだなどとともに、「山田さんの傘・提灯」「まつやさんの竹細工」といった手仕事の工房なども混ざっています

宮滝遺跡周辺@吉野町-17
この看板のすぐ近くにあった、風水百珍の一つ「関西電力の水路橋」。説明によると「関西電力が大正時代に建設した全長約60メートル・幅約5メートルの水路橋。御園区内に架かる」とありました。吉野にこんな近代の遺構があるのは、ちょっと不思議な感じがしますね



大きな地図で見る(※住所は「吉野歴史資料館」のもの)


■参考にさせていただきました!

宮滝式土器から見えてくる縄文・弥生時代の暮らし(コラム)|歩く・なら
白泡の玉と響く、美しき清流・宮滝へ(万葉ルート04)|歩く・なら


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