2011-12-12

大津皇子の辞世の句が残る『磐余の池』@橿原市

大津皇子の辞世の句が残る『磐余の池』@橿原市

万葉の時代を代表する悲劇的な人物「大津皇子(おおつのみこ)」が、恐らく無実の罪のために死を賜る前に辞世の句を詠んだとされる場所が『磐余の池(いわれのいけ)』です。その場所は橿原市池尻とされていて、今はもう池もありませんが、吉備真備ゆかりの『御厨子観音妙法寺』が建っています。


万葉歌「ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を…」

「大津皇子(おおつのみこ)」は天武天皇の第3子で、母は天智天皇(天武天皇の兄)の皇女である大田皇女。人格と血筋からみても皇位を継承するのに相応しい人物だったとされています。しかし天武天皇が没したわずか1ヶ月、皇位継承問題から無実と思われる罪を着せられ、わずか24歳の若さで死を賜りました。このことから、古代史の悲劇のヒーローとして知られています。

この事件の首謀者とされるのが、天智天皇の皇女(大田皇女の妹)で、天武天皇の后、つまり大津皇子の叔母にあたる「鵜野讃良皇后(後の持統天皇)」。我が子である草壁皇子を皇位につけるために、最大のライバルであった大津皇子を除いたと言われています。

朱鳥元年(686年)に天武天皇が崩御した約1ヶ月後の10月2日に謀反を企てたとして捉えられ、その翌日には「磐余(いわれ)」にある「訳語田(おさだ)」の自宅で自害させられました。その際には、妃の山辺皇女も殉死したとされています。

その大津皇子が、死を賜るに際して詠んだ辞世の句が、「大津皇子、死を被(たまわ)りし時に、磐余の池の堤にして涙を流して作らす歌一首」という題詞とともに万葉集に遺されています。

ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠りなむ
大津皇子 万葉集 巻第3-416
百に伝い行く五十、ああその磐余の池に鳴く鴨、この鴨を見るのも今日を限りとして、私は雲の彼方に去って行くのか。

「ももづたふ」は磐余の枕詞。自邸の近くにあった磐余の池の畔で、自由に飛べる鴨たちを見るにつけ、自らが囚われの身であることを嘆いたのでしょう。自らの死を悟って詠んだ、とても悲しい歌です。


磐余の池の姿もなく、畑になっています

大津皇子が詠んだ「磐余の池」があった場所は、まだ諸説あるようです。場所は天香久山の北東、香久山駅から1kmほど南に位置する、橿原市東池尻町の「御厨子観音妙法寺」さんの付近とするのが有力で、ここに写真家・入江泰吉さん揮毫の万葉歌碑も建てられていました。

しかし、万葉歌碑の周辺には池はなく、のんびりと畑が広がるばかり。そんな悲劇の舞台になったとは全く想像もつかない風景になっています。しかし、その史実を知っていれば、様々な想像が膨らんでいきますので、ぜひ現地まで出向いてみてください。


磐余の池(御厨子観音妙法寺)@橿原市-01

磐余の池があったとされる場所に建つ万葉歌碑。「ももづたふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」という大津皇子が死を賜った際に詠んだ歌です。揮毫は、写真家の入江泰吉さん

磐余の池(御厨子観音妙法寺)@橿原市-02
謀反の罪を着せられた大津皇子が辞世の句に詠んだ「磐余(いわれ)の池」があったとされる、橿原市の妙法寺前。万葉歌碑が立っていますが、周りはこんなのどかな風景が広がっています

磐余の池(御厨子観音妙法寺)@橿原市-03
少しアングルを変えたところ。過去の悲劇を思い起こすような雰囲気ではなく、はてしなく静かでのどかです


吉備真備ゆかりの「御厨子観音妙法寺」も

この磐余の池があったとされる場所のすぐ脇にあるお寺が「御厨子観音妙法寺」です。遣唐使として唐にわたり、国の中心となった吉備真備(きびのまきび)が創建に関わったという、由緒あるお寺です。



御厨子(みずし)観音妙法寺は、 吉備真備(きびのまきび)が、入唐留学によって学芸を修めるとともに、唐から無事に日本に帰ることができたことに感謝し、735年(天平7年)に善覚律師(吉備真備の子)に命じて観音堂を創建させたことに始まります。
真備は、西暦716年(霊亀2年)、朝廷から遣唐使の一員に選ばれ、阿倍仲麻呂らと共に入唐留学しますが、その年に彼は、日頃信仰していた観音様にご加護を祈り、「唐で学芸を修め、無事日本に戻ってくることができたなら、自分の領地に先祖の霊を祭る建物を造り、仏恩に報います。」と誓っています。
彼は、唐に18年間留まりましたが、その間、苦しいことにあうたびに観音の化身が現れ助けられたとか、鬼(阿倍仲麻呂)に助けられて囲碁の御前試合に勝ったとか、クモに助けられてむずかしい詩(野馬台詩)をよんだとかなどの話が伝えられています。
吉備族退潮のあとも、この寺は、観音堂の霊験加護にあやかろうとする人々によって支えられ、盛時には、およそ5万平方メートルの境内に、北室院、南室院等の塔頭寺院が並び立ったと言われています。その後、数々の戦乱、火災等にあい、今では、当時をしのぶ建造物はなく、仏像も長い年月を経て作り替えられています。
現在のお堂は、元禄時代に、当観音を信仰する人々によって、焼け残った資材を集めて再建されたものです。吉備真備が書いた「大般若経(だいはんにゃきょう)」は、現在も奈良国立博物館に保管されています。


この日はお会いできませんでしたが、ご本尊の十一面観音像は「御厨子(みずし)観音」として信仰を集め、毎年5月の第二日曜には「御厨子観音花祭り」という法要が盛大に執り行われるそうです。春になったらまたお会いしに来たいと思います。


磐余の池(妙法寺)@橿原市-04

「御厨子観音妙法寺」の参道にある看板。山号は「御厨子山」で。716年に吉備真備の発願、735年にその子である善覚律師が観音堂を創建しました。また、22代の清寧天皇の「磐余甕栗(みかぐり)宮」はこの山にあったと推定されているそうです

磐余の池(妙法寺)@橿原市-05
御厨子観音妙法寺の参道。それほどの距離ではありませんが、やや小高い場所に建っています

磐余の池(妙法寺)@橿原市-07
観音堂など。ここにご本尊の十一面観音さまの「御厨子観音」が祀られています。この日はお詣りできませんでしたが、大人は拝観料300円でお会いすることができるようです

磐余の池(妙法寺)@橿原市-08
平成元年に発願し、平成5年に完成した「幸よびの鐘」

磐余の池(妙法寺)@橿原市-09
これは「光明不動」と名付けられた石です。「この自然石の中にお不動明王さまの姿が見えれば眼病が治ると伝えられています」とのこと。残念ながら私には分かりませんでした・・・


清寧天皇「磐余甕栗宮」跡の御厨子神社

御厨子観音妙法寺に隣接して『御厨子(みずし)神社』があります。

22代の清寧天皇の「磐余甕栗宮」の跡で、磐余池の尻辺にあったことから「水尻(みずしり)神社」といい、根析(ねさく)神・安産霊(やすむすび)神の二柱を祀っていました。室町時代に入り、御厨子観音妙法寺が現在地に移転してきたことから鎮守八幡宮が合祀され、現在の「御厨子神社」となったそうです。

人気のない静かな境内には、真っ二つに割れた岩があり、ここには石神「石析(いわさく)神」も祀られているとか。ぜひ合わせてお詣りしておいてください。


磐余の池(妙法寺)@橿原市-10

磐余の池(妙法寺)@橿原市-13

磐余の池(妙法寺)@橿原市-11

磐余の池(妙法寺)@橿原市-12

磐余の池(妙法寺)@橿原市-14



大きな地図で見る


■御厨子観音 妙法寺

HP: http://www.ne.jp/asahi/mizushi/kannon/
住所: 奈良県橿原市東池尻町420
電話: 0744-22-3928
宗派: 真言宗高野山派
本尊: 十一面観世音菩薩
創建: 735年
開基: 吉備真備
拝観料: 境内無料(本堂拝観は300円)
駐車場: 無料

※実際に磐余の池に行ったのは「2011年2月2日」でした










  • Twitterでフォローする
  • Facebookページを見る
  • Instagramを見る
  • ブログ記事の一覧を見る







メニューを表示
ページトップへ