2012-11-26

大和富士にひっそりと眠る『山部赤人の墓』@宇陀市

大和富士にひっそりと眠る『山部赤人の墓』@宇陀市

「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」の歌で有名な歌人「山部赤人(やまべのあかひと)」。奈良時代を代表する歌人で、後に三十六歌仙にも数えられています。宇陀市榛原山辺の地には、そのお墓と伝わるものがひっそりとあります。五輪塔と万葉歌碑、小さな看板しかありませんが、自然を愛でた歌を数多く遺した方らしい、静かな墓所でした。


三十六歌仙にも数えられた山部赤人とは?

奈良時代を代表する歌人として知られる「山部赤人(やまべのあかひと)」。柿本人麻呂や大伴家持と並び、後の時代に万葉時代の歌人の中から「三十六歌仙」に選ばれています。


その経歴は定かではないが、『続日本紀』などの史書に名前が見えないことから、下級官人であったと推測されている。神亀・天平の両時代にのみ和歌作品が残され、行幸などに随行した際の天皇讃歌が多いことから、聖武天皇時代の宮廷歌人だったと思われる。作られた和歌から諸国を旅したとも推測される。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。『万葉集』には長歌13首・短歌37首が、『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に49首が入首している[3]。自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているとの指摘もある。

柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。紀貫之も『古今和歌集』の仮名序において、「人麿(柿本人麻呂)は、赤人が上に立たむことかたく、赤人は人麿が下に立たむことかたくなむありける」と同等に評価している。この人麻呂との対は、『万葉集』の大伴家持の漢文に、「山柿の門」(山部の「山」と柿本の「柿」)とあるのを初見とする[4]。


山部赤人については、その名前を知らない方であっても、富士山を詠んだこの歌は聞き覚えがあるのではないでしょうか。

田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける
山部赤人 万葉集 巻3-318
田子の浦をうち出でて見ると、何と真っ白に富士の高嶺に雪が降り積もっている

百人一首には、「田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」として収められています。スケールが大きく雄大で、それでいてしんと静まり返った情景が浮かんでくるようですね。私はこの歌が詠まれた「田子の浦」にはまだ行ったことがありませんが、憧れの土地の一つでもあります。

なお、あまり知られていませんが、この歌は「山部宿禰赤人、富士の山を望(み)る歌一首、あわせて短歌」の短歌部分であり、前の長歌の反歌として詠まれたものです。ついでにご紹介しておきます。

天地の 分かれし時ゆ 神さびて 高く貫き
駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)け見れば
渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も
い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ
言い継ぎ行かむ 富士の高嶺は
山部赤人 万葉集 巻3-317
天と地の相分かれた神代の時から、神々しく高く貴い駿河の富士の高嶺を、大空はるかに振り仰いで見ると、空を渡る日も隠れ、照る月の光も見えず、白雪も行き滞り、時となくいつも雪は降り積もっている。ああ、まだ見たことのない人に語り聞かせ、後々まで言い継いでゆこう。この神々しい富士の高嶺を。


山辺の村の「大和富士」に眠っています

山部赤人の墓とされる場所は、宇陀市榛原山辺にあります。数キロの距離にある「戒長寺(かいちょうじ)」(Wikipedia)を目指していくと、その途中にひっそりと案内が見つかります。

実際のところ、有名な歌人とはいえ、奈良時代の下級官僚でしかなかった山部赤人ですから、その生涯は詳しく分かっていません。もちろん、どこで亡くなったかという終焉の地などは不明です。しかし、ここの地名は「山辺」であり、山部赤人は「山辺赤人」とされることも多かったことから山辺の出身であると考えられ、ここが墓であると伝わっているとか。

さらに、墓がある「額井岳(ぬかいだけ)」は、古くから「大和富士」と呼ばれるほど姿の美しい山で、代表的な歌である「富士の高嶺に雪は振りける」との共通性があって面白いですね。


山部赤人の墓@宇陀市-01

道路脇にある「山部赤人の墓」の目印。戒場山にある戒長寺までは1km、額井岳へは3km、最寄りのバス停「天満台東3」(ここが終点だとか)までは1.8kmという表示でした。「額井岳・戒場山登山道」のコースになっていますので、ハイキングがてら歩いてみるのもいいかもしれませんね

山部赤人の墓@宇陀市-02
説明その1【山部赤人の墓「田子の浦ゆ うちいでてみれば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は降りける」と詠んだ山部赤人は、聖武天皇の頃(8世紀)宮廷に仕えた下級官吏ですが、宮廷歌人として数多くの歌をのこしています。没したのは天平8年(736年)といわれ、ここ大和富士と呼ばれる額井岳東麓にしづかに眠っています。】

山部赤人の墓@宇陀市-03
説明その2【山辺赤人の墓 「万葉集」に数多くの秀歌を遺した歌人、山辺赤人の墓地と伝承されている。ここにいつの頃にか建てられた五輪の石塔、いかにも古そうに風化している。伝承そのままが真実であるかは詳らかではないが、ここ大和富士の南斜面に人家の散在する文字通りの山辺の村に、山辺赤人が葬られていると、古くから村人は信じて疑わない。】(こちらの看板では「山辺赤人」表記になっていますね)

山部赤人の墓@宇陀市-05
「山部赤人の墓」と伝わる五輪塔。高さ210cmで、とても簡素な作りです。建立は鎌倉時代のようで、ここに山部赤人が眠っている確証はないとか。しかし、とても静かな場所にあり、自然を愛した歌人の墓には相応しいように思えました


万葉歌「あしひきの 山谷越えて 野づかさに~」

あしひきの 山谷越えて 野づかさに
今は鳴くらむ 鶯(うぐいす)の声
山部赤人 万葉集 巻17-3915
山や谷を越えて来て、野の小高いところで今ごろは鳴いているであろう鶯の声よ。

山部赤人の墓@宇陀市-04
山部赤人のお墓の近くに建つ万葉歌碑。雨に濡れて全く読めませんでしたが、「あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ うぐいすの声」という歌のようです。歌人の三浦真木夫三という方が揮毫したそうです


ルートを間違えるとアクセスが大変です

なお、車で山部赤人のお墓へ行く際には、国道165号線側からではなく、369号線側から入った方が無難なようです。私たちは165号線の小さな路地から向かったのですが、道は細いし、途中から登山道(東海自然歩道)を歩かされることになったりと、雨の日に大変な思いをしました。お気をつけください!


山部赤人の墓@宇陀市-07

165号線沿いの細い道を抜けると、駐車場の先にこんな道が続いていました。田んぼの畦道を通ったあと、1kmほどの登山道を登る羽目になりました…

山部赤人の墓@宇陀市-08
柿の実と田んぼと雲海。雨で煙っていて雰囲気がありますが、歩くのは大変です(笑)



より大きな地図で 山部赤人の墓 を表示


■山部赤人の墓

HP: 大和路アーカイブ [山部赤人の墓]
住所: 奈良県宇陀市榛原山辺三
電話: 0745-82-2457(宇陀市商工観光課)
定休日: 見学自由
駐車場: 余裕あり
アクセス: 近鉄大阪線「榛原駅」から、奈良交通天満台東三丁目行きバスで30分、終点下車。徒歩40分


■参考にさせていただきました

山部赤人の墓 - 奈良の名所・古跡
山部赤人 - Wikipedia






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