2018-04-10

【雑文】『嫌い』を語らず、『好き』を語ろう

【雑文】『嫌い』を語らず、『好き』を語ろう

「なぜみんな、簡単に『嫌い』を口にして、もっと自分の『好き』を語らないんだろう?」

ときどき不思議に思うことがある。




自分自身も「好き」を言葉にできないタイプだ。もともと冷笑的な傾向がある人間だし、それがいかに素直な感情であっても、ストレートにそれを披露することには照れがある。カラオケでスローなバラードの名曲を歌い上げるような気恥ずかしさといったら近いだろうか。

だから、ずっと本当の「好き」はオブラートに包むようにしてきた。好きだ好きだを言葉にするのではなく、好きという態度を表現することでその気持ちを示したいのだ。言葉ではなく、自分が積み重ねていく行為によってその気持ちなり、強い思いなりを表現していくのが貴いとも思っている。今ならきっと古いタイプだと言われるんだろう。

自分が好きな「奈良」についてのブログを、飽きもせずに10年以上も続けられたのも、単純にそういうことだと認識している。




しかし、世の中にはそうでない人がたくさんいる。自分の「好き」を語らず、目につく「嫌い」を語ることに時間を費やす人たちだ。その内容はさまざまだ。ある事柄について憤って発せられた言葉、対象を叩くために浴びせかけられる無慈悲な言葉、改善や撤回を求めて叫ばれる強い意志を感じる言葉。

しかし、童話「北風と太陽」ではないが、もっとも強い輝きを放つのは「好き」という気持ちから発せられた言葉だろう。好きというポジティブな感情から発せられる言葉は、人の心に容易に入り込んでくる。あまりにも言葉の熱量が高すぎるとみんな逃げ出してしまうかもしれないが、その純粋な熱意は決して嫌なものではない。何よりも「信頼したい」という気分にさせてくれる。

逆に、「嫌い」という感情から発せられた言葉は、自然とさまざまなニュアンスを帯びてしまい、素直に聞き入れることができなくなってしまう。その言葉がどれだけ正しい内容であっても、「概ね同意するが、賛同しかねる」ということになりやすい。




インターネットの世界にどっぷりと浸かって生活してきた私だが、唯一心に決めているのが、「“嫌い”を語らない」ということだ。

嫌いなものを嫌いと切り捨てたとき、たしかに一瞬いくらか気分は晴れるのかもしれない。しかし、それで何が変わるわけではない。自分が吐き出したネガティブな言葉だけが漂い、後から別の種類のほろ苦い感情が沸き起こってくる。

嫌いなもののために思考の一部でも注ぐ必要はない。ましてやネットに負の感情を書き込むなんて、時間の無駄に過ぎない。その時間を、自分が好きなものを思い浮かべてドーパミンを放出することに費やしたほうが、どれだけ健全だろうか。

私の友人には、「好き」を真っ直ぐに語ることのできる者が何名かいる。世の中には、熱中できるものが見つからないと悩む人も多いのに、彼ら、彼女らはすでにそれを見つけている。そんな彼らの「好き」があふれ出るような言葉は、強く、深く、それでいて胃にもたれない。

自分の言葉もいつかそんな味わいが出ることを願いながら、今日もせっせとキーボードを叩くだけだ。










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