【雑文】「奈良は大人の街」だからこそ、若者よ来い!
先日の雑文で、こんなことを書きました。
この文章自体はとくに尖った内容でもないと思っています。しかし、SNSに『私が奈良県知事選挙へ立つとしたら、「奈良県への中高生の修学旅行の受入中止」をマニフェストとしたい。』というところだけを切り取って投稿してしまったため、私の意図とは違った反応をいただく結果となってしまいました。
私が奈良県知事選挙へ立つとしたら、「奈良県への中高生の修学旅行の受入中止」をマニフェストとしたい。物の価値もわからない、うるさいばかりの修学旅行生を受け入れているからこそ、「奈良は修学旅行で行かされるところ」として認識されてしまっている。
逆に、修学旅行の受入を拒否してしまえば、小さなころに親が連れてきたり、大学生になって少し成熟した視点から奈良と向き合えるかもしれない。奈良県は官民一体となって修学旅行の誘致を行ってきたが、そろそろその方針も転換してもいいのではないかと思っている。
「【雑文】奈良は大人の街」より
(※現在は一部修正してます)
ややこしい書き方をしてしまったことは深く反省しております。失礼いたしました。
Facebookでいろんな方からご意見をいただいたり、リアル知人から「それはどうなの?」というような反応をいただいたりもしました。簡単に口で説明できることでもないので、ここで思っていることをまとめておきます。
※修学旅行に行き先は、お住いの地域によって大きく変わります。あくまでも一般論としてお読みください。
修学旅行生の誘致はプラスなのか?
「修学旅行生を奈良へ誘致すること自体、長い目で見れば、奈良にとってプラスになっていないのではないか?」
以前からこんな疑問を持っている。
戦後の復興にともない、たくさんのこどもが生まれ、学校単位で修学旅行を行うことが一般化した。大型バスで移動し、夜は旅館の大部屋で食事。座敷に布団を並べて敷いて眠る。旅館側からしても扱いやすい客であり、修学旅行生をいかに多く呼ぶかは観光産業の生命線だった。
しかし、極端な少子化が進む現在、修学旅行を誘致することは、もうあまりメリットがなくなってきている。それどころか、これまであまり語られてこなかったが、修学旅行によるマイナス面も大きかったのではないかと思うのだ。
修学旅行で誤解が植え付けられる?
「若いうちに本物に触れることは重要だ」という意見は当然あるだろう。
「修学旅行で行った奈良が好きになって、それから何度も来ています」という方も何名もいらっしゃるはずだ。
しかし、それと同時に、その何十倍もの人びとに「奈良には修学旅行で行ったけど、鹿と大仏さんしか無かった。」という誤解を植え付けているのではないか?
「修学旅行で行ったから、奈良はもういいや。」そう思わせてしまっているのではないか?
「修学旅行で行ったからもういいや」
もちろん、私自身、団体行動が苦手なひねくれ者であり、修学旅行にいい印象がないことは認める。
北陸生まれの私の学校では、中学2年生のときに「京都・奈良」へ修学旅行に行くのが恒例となっていた。とくにその土地について興味があったわけでもなく、移動中も夜も、ずっと友人と紙製の麻雀をやっていた。
冗談のような話だが、奈良の街を見学した記憶は一切残っていない。それどころか、京都の記憶すら曖昧で、唯一はっきりと覚えているのは、移動の電車の窓から初めてみた琵琶湖の大きさだけだ。クラス全員が海育ちなのに、みな口を揃えて「大きい!ほぼ海じゃん!」と大騒ぎになったのだ。
おそらく、この文章をご覧になるのは、奈良がお好きな方がほとんどだ。「奈良はいいところだよ。行ってみればその良さがわかるよ」と思われるかもしれない。
しかし、実際のところ、私の田舎の友人たちなども、修学旅行をきっかけに奈良が好きになるどころか、「奈良は修学旅行以来、一度も行っていない」という者がほとんどだ。修学旅行のときの印象に左右されているのかともかく、「一度行ってるからもうそれで十分だ」と思われている可能性は高い。
そう考えると、「奈良ファンを増やす」という観点からみると、修学旅行で奈良に来てもらったことは、決してプラスに働いているとはいえない。よくわからないまま大型バスで奈良に連れてこられて、駆け足で数カ所を巡るような修学旅行では、長い目で見れば悪影響といえる。
現在の奈良の観光業が、そのポテンシャルに比べて、ぱっとしないように見えるのは、今の中年世代が「修学旅行で行ったけど、奈良はたいしたことがない」という印象を持たれてしまったことにも一因ではないかと思うのだ。
もちろん、いまどきの修学旅行は、現地での立ち寄り先を生徒さんたちが決定し、それについて十分な下調べもしてから行くのだろう。そういった準備がなされているのであれば、文句などいう必要はない。先生にも生徒さんにも感謝しかない。
修学旅行先のため家族旅行も減る?
修学旅行による観光面のデメリットをもう一つ。
例えば「自分のお子さんが通う学校は、修学旅行には奈良へ行く」とわかっているとする。そうなると、少なくともその前後の数年間にわたって、家族旅行の行き先候補に「奈良」が登場することはないのではないか。
奈良の観光業のことを考えれば、この機会損失も大きのではないかと思う。
行くべき場所に、行くべきタイミングで
誤解してほしくないのは、「中高生はうるさいから来るな」と言っているのではない、ということだ。興味がある者もない者もひっくるめて、同じ学年の全員を連れてくる「修学旅行」について、もう受入は見直してもいいのではないかと言いたいのだ。
私にとって、奈良は特別な場所だ。しかし、十代の私には、そんなことはまったく気づくことはできなかった。
中年になった私がこれだけ奈良好きになったのは、修学旅行のときのイメージが潜在意識の奥深くに刻まれていたからだ……などとこじつけることもできるかもしれない。しかし、当時の私にはまったく響かなかったのだ。当然のことだが、本物に触れたからといって、それがすぐに人生の肥やしになったりするものではない。
奈良に限った話ではないが、たとえ“行くべき場所”があったとしても、“行くべきタイミング”で訪れないと、それに気づくことなどできないものだ。
また、決してスピリチュアル系の話をするわけではないが、奈良好きになってくれる人というのは、修学旅行の行き先が奈良ではなくとも、導かれるかのように、自然とこの土地に来てくれるものだ。きっと早い時期に家族で、または友人たちと奈良へ訪れてくれるものだと思う。そして、自分の意志で訪れた初めての奈良を、心から楽しんでくれることだろう。無責任な言い方になるが、そういう確信がある。
若者のグループ旅行に支援を!
やや余談になるが、これからは修学旅行生の誘致よりも、行政として学校での課外活動や、若者のグループ旅行などを集客する方向に転換できないかと思っている。
中学生や高校生であっても、誰かに連れてこられる修学旅行ではなく、仲間たちと計画した旅行であれば、身の入り方が違うはずだ。もちろん、大学生の旅行も大歓迎だ。
「奈良の街の空気を感じ、古刹や古仏を目の当たりにするなんてスノッブだ」くらいの認識が広まることを願っている。「まだよくわからないけど、奈良のお寺や神社、仏さんも神さまもクールだね」くらいのことを思ってほしい。
和辻哲郎『古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(あと、堀辰雄『大和路・信濃路』も)あたりを少しわかりやすい文章にしたパンフレットを作成していいかもしれない。さらにいえば、和辻哲郎が登場する漫画などもあるといい(私が読みたい!)。そんな悩める若者の姿に重ねて、「人生に悩んだら奈良へ来ればいい」が伝わってほしいと思う。
理解不能なほど古いものが存在する飛鳥や山の辺の道を歩いて、かつて日本の中心だったとは思えないような風景に驚いてほしい。「よくわからないけどすごいらしい」を実感できることは重要だ。
こういう少人数単位の学生さんの旅行に、県から補助金でも出す方法があればいいのに……とは、心の底から思う。大型バスであちこち移動する修学旅行ではなく、なかなか来てくれないローカルバスを待つ時間も、若いうちであれば楽しめるものだ。それが奈良の片隅だとしたら、きっと一生忘れない貴重な体験となるはずだ。
「奈良は大人の街」だからこそ若者よ来い!
実際問題として、県が“中高生の修学旅行の受入中止”を宣言できるとは思わない。私も別にそれを望んでいるわけではない。
とはいえ、「大人の県・奈良県。修学旅行生の皆さん、ごめんなさい。奈良の良さがわかる大人になってから来てね」くらいの観光キャンペーンをやってくれないかと妄想したりする。
「奈良は大人の街」という、私の思いは変わらない。だからこそ、学生さんたちは少し背伸びしてでも、奈良の空気を感じてほしい。自分の足で奈良を歩けば、きっと何かが見つかるよ!