【雑文】紳士から「仙人」の境地に到達するために
自分が「中年」に差し掛かってきたころから、少しずつ社会的に“まとも”な生活規範を身につけたという自覚がでてきた。
若いころは、待ち合わせ時間に遅刻することなど珍しいことではなく、たいして理由もないのに、なぜか間に合わなかったりもした。上京した親父との待ち合わせに遅刻して、かなり怒られた記憶もある。
社会人になっても、まったく朝に起きられず、何度か遅刻したこともあった。もちろん、本人は遅刻などしたくはないのだが、ついつい夜更かしして……とか、目覚まし時計を止めてしまって……とか、目の前に立ちふさがる障害には事欠かなかった。そのときの祟りなのか、いまでも重要な日に遅刻して飛び起きる夢にうなされたりしている。
また、時間に関することばかりではない。タバコの吸殻をポイ捨てをしたり、酔って良くないいたずらをしたり。若気の至りというにしても恥ずかしい、消し去りたいような記憶がいくつもある。
しかし、ある頃からこうした悪いクセは少しずつ消えていき、いまではちょっとした「紳士」といえるくらい、丸く穏やかになった。
待ち合わせ時間には余裕を持って到着するし、道端にゴミを捨てるなんてとんでもない!原稿の締切日の数日前には送信できるし、車の運転中もイライラせずに道を譲れる。ギャンブルはもちろん、余計な無駄遣いもしない。たまに人の悪口を言ったりもするが、「他人は他人」と周りも気にならなくなった。
若いころの自分と比べれば、余計な脂分が抜けきって、出涸らしのようにからからだ。
人によってはこれを「覇気がなくなった」などととらえるのかもしれないが、自分にとってはどれも嬉しい変化だ。意識して変わったこともあれば、自然とそうなっていたものもある。年を重ねるごとに、(内面的には)どんどん自分の理想形に近づいていってる感がある。
こういう例として、一番わかりやすいのは「車の運転」だろうか。年齢に合わせて、それに見合った落ち着いた運転をしたいと思うようになった。
「信号待ちの際に、コンビニの駐車場を横切ってショートカットする」なんてことも、気分が焦っていたときにやったことがあった。しかし、いい歳をしたおっさんであれば、平気な顔をしてのんびりと信号待ちしたいし、自分自身はそうすべきだと思っている。
その次は、「住宅街の細い道を近道として使う」ことを止めたいと思う。これは決して悪いことではないにしろ、自分の基準(または美意識)に照らし合わせると、「いい年こいてすることではない」に分類されてしまう。40代ならまだ許されるが、50代からはダメ、そんなイメージなのだ。
また、すっかり脂っ気が抜けたかのように見える私でも、「運転中にほかの下手な車に悪態をつく」という悪癖がなかなか治らない。助手席には嫁が乗るくらいなので、とくに害もないのだが、私的には決してかっこいい行為だとは思えない。
前をゆっくりのんびり走る車の存在を、自然と受け入れることができたとき、自分自身が少しは完成形に近づいたという実感が生まれるのかもしれない。道のりは遠いが、理想に近づく努力だけは続けたいと思う。
結局のところ、自分は決して「紳士」を目指しているのではなく、そのはるか先の「仙人」レベルに達したいのだと思う。決して「霞を食べて生きたい」のではなく、「『霞を食べて生きていそう』と見られたい」といってもいいかもしれない。
目指すのは、世の中の些末な出来事には興味を示さず、のんびりと好きなことを楽しみながらふわふわと暮らしている好々爺だ。傍目からそう見えるようにやせ我慢するのではなく、日々小さく自分を律していくことによって、自然とそういう雰囲気が醸し出されるようになりたいのだ。
老後の不安などはひとまず置いておいて、老いても自分の理想に近づいていけるような姿勢だけはキープしたいと思う。