2016-04-15

明治の造林王『土倉庄三郎』の磨崖碑と銅像@川上村大滝

明治の造林王『土倉庄三郎』の磨崖碑と銅像@川上村大滝

明治時代に川上村大滝に生まれ、造林王・近代林業のパイオニアと呼ばれた林業家「土倉庄三郎」。大財閥・三井家に匹敵する財力を持ち、同志社大学や日本女子大の設立にも尽力するなど、大変な人物でした。その功績を永く伝えるための磨崖碑と銅像が大滝にあります。書籍『森と近代日本を動かした男』を参考にその事績を追ってみます。


吉野林業を確立した近代林業のパイオニア

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-12
まずは、庄三郎の事績を丹念に追った書籍『森と近代日本を動かした男 ~山林王・土倉庄三郎の生涯』から、簡単にご説明します

明治時代、吉野郡川上村大滝に「土倉庄三郎(どくらしょうざぶろう)」という林業家がいました。

現在では、奈良県民でもあまり名前を聞くことはありませんが、明治時代の最盛期には、吉野に9000haもの山林を所有し、大財閥・三井家に匹敵する財力を蓄えたとされています。

板垣退助の洋行費を提供したり、大隈重信、山形有朋、井上馨など、明治の元勲たちとも親しく交わるなど、山深い大滝の土地が政財界に大きな比重を占めていたのです。

また、「自分の財産の三分の一を国家のために使い、次の三分の一を教育と人のために使い、残りの三分の一で一家の経営をしたい」と語っていた方で、実際に同志社大学の設立の際には新島襄への資金援助を行い、日本女子大の設立にも尽力するなど、教育にも熱心な篤志家でもありました。

地元への貢献も多大です。

●川上村を走る国道169号線は、事実上、土倉家が建設した道です。吉野町宮滝から先、踏み分け道しかなかったところを、木材の運び出しのために多大な私費を投入して、荷車の通れる道にしました。

●明治初頭、吉野山の木を薪として売却する話がありました。吉野山の住民もそれを了承し、土倉家へ桜を伐採したあとに植えるスギ・ヒノキの苗木を購入する相談に来たところ、庄三郎が「その金額を土倉家が出す」と言ってそれを止めたのだとか。儲けのチャンスを潰しても、吉野山を守ったのです。

●荒廃していた興福寺周辺の奈良公園の復興計画にも携わり、春日山・芳山・花山などを整備し、健全な森として管理する計画を実行しました。

●地元の大滝村の学校運営にも多額の寄付をしています。1876年には庄三郎の寄付で、女児用の袴とともに、洋装の制服が購入されていました(川上村の林業資料館などで現物を見ることができるとか)。洋装の人を見かけること自体がまだ珍しい時代に、あの山間の村に洋装の子供たちが学んでいたというのが面白いですね。

土倉家の繁栄を築いたのは、土倉らが確立した「吉野林業」でした。

「密植・多間伐・長伐期による大径木生産」といった、当時と手しては画期的な手法を用い、「近代林業のパイオニア」と呼ばれました。

まず、植林の際には、1haあたり通常の2~3倍にあたる「8,000~10,000本」を植えます。密植することによって、まずは幹を高くまっすぐ伸ばし、年輪も密にもできます。その後、十数回も間伐を繰り返し、80~100年後に100~150本に減らし、より太く育てていきます。もちろん、間伐材も無駄にすることなく、建材や樽などに使用されます。


対岸の磨崖碑「土倉翁造林頌徳記念岸壁碑文」

吉野のさらに奥、川上村大滝(当時の大滝村)へ行くと、川を挟んだ向こう岸・鎧崖岩(鎧掛岩)に巨大な文字が掘られているのが見えてきます。

これは「土倉翁造林頌徳記念岸壁碑文」といい、土倉庄三郎の偉業を称えるため、没後4年にあたる1921年に刻まれた巨大な磨崖碑です。1文字の大きさが約1.8m。全長23.6mあり、文字の彫刻だけで、延べ150人と50日を要した、大変な難工事でした。

建設を計画したのは、庄三郎から大きな影響を受けていた、東京帝大の林学科教授「本多静六」(Wikipedia)です。明治神宮の杜の設計者としても知られている人物で、何度も吉野に足を運び、生前の土倉庄三郎から多くを学んだそうです。


土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-06

川上村大滝の川岸に、突然あらわれる大きな磨崖碑。土倉庄三郎の功績を永く称えるためのもので、「土倉翁造林頌徳記念岸壁碑文」が正式名称です。カーブに差し掛かったところにあるので、車の運転中はあまり気づかないかもしれません

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-07
別の角度から。絶壁にしっかりと「土倉翁造林頌徳記念」の9文字が彫られています。作業のための足場は高さ約36m・幅12mにも及び、この作業だけで150人が参加し、25日も要したとか

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-08
2014年に文字の色を塗り直す作業を行ったため、以前よりはっきりと読めるようになっています

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-09
現地にある「磨崖碑について」という説明書。何と彫ってあるのか、いつごろ作られたのか、目的ななにかなど、分かりやすい言葉で説明されています

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-10
さらに、まだ新しい説明書き入りのポールも立っています。裏側の文字は「造林王と呼ばれた土倉庄三郎翁は一八四〇年にこの地で生まれ、土倉式造林法を確立し、日本全国や台湾にも造林技術を広げると共に、木材運搬のために私財を投じて吉野川の河川改修や道路建設を行い、林業の発展のため貢献された。また政治・教育にも私財を投じ、七十八歳で亡くなった「翁」の住居跡である」


生家跡には銅像も建っています

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-01
磨崖碑のすぐ近く、土倉家の住居跡地に、土倉庄三郎の銅像も建っています。同じ敷地にある郵便局や派出所の土地も、土倉家が提供したものです

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-02
庄三郎の像は、没した翌年に作られましたが、金属供出令のために失われました。1967年に作られた2代目は、足元の腐食が進んだため、現在は胸像として林業資料館前に陳列されていて、現在のものは3代目となるそうです

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-03
銅像の前にある土倉庄三郎の生家の図。家屋は伊勢湾台風で全壊し撤去されました

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-04
銅像のまわりもがらんとしています。土倉家は、庄三郎の引退後に長男が事業に失敗し、その財産の大半を失ってしまいました。吉野林業全体も、高級木材が飛ぶように売れたバブル景気以降は下火となり、往時のような輝きは失ってしまいました

土倉庄三郎の磨崖碑と銅像@川上村-05
大正時代の案内図。吉野の宮滝から先は心細い踏み分け道しかなかったところを、五社峠を越える道を開いたり、大滝から南の道を作ったりと、土倉庄三郎の功績がなければ開発はずっと遅れていたでしょう



■土倉庄三郎 磨崖碑など

住所: 奈良県吉野郡川上村大滝(大滝郵便局の近く)
アクセス: 近鉄吉野線「吉野神宮駅」から車で17分ほど

※実際に現地へ行ったのは「2016年2月25日」でした


■参考にさせていただきました

土倉庄三郎 | 川上村 吉野林業
土倉庄三郎 - Wikipedia
「あさが来た」の陰にいた知られざる山林王(田中淳夫) - 個人 - Yahoo!ニュース










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