藤原仲麻呂の後ろ盾を得て、第47代天皇となった「淳仁天皇」。764年の恵美押勝の乱の後に廃位となり淡路島へ配流された、悲劇的な運命をたどった方です。淡路島にある陵(=お墓)『淳仁天皇 淡路陵』と、淳仁天皇が淡路島で過ごした地と伝わる『史跡 野辺乃宮』を巡ってきました。
淡路島へ配流された「淳仁天皇」とは
天武天皇の皇子・舎人親王の第7子であった「淳仁天皇(大炊王)」(Wikipedia)は、数奇な運命をたどった方です。
聖武天皇の死後、新田部親王の子・道祖王が立太子したが、後に孝謙天皇によって廃され、光明皇后が後ろ盾となった藤原仲麻呂(後の恵美押勝)の推挙により大炊王が立太子します。
758年(天平宝字2年)孝謙天皇から譲位を受けて第47代天皇となり、6年間在位しましたが、実質的に藤原仲麻呂の傀儡政権だったと言われています。
760年には光明皇后が没。孝謙上皇は僧・道鏡を重用し始めており、仲麻呂の進言から天皇がこれを諫めたことから関係が悪化。孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを宣言したことから、764年には「恵美押勝の乱」に発展します。上皇側が勝利したことから天皇は後見人を失い、翌月には廃位を宣告され、5日後には淡路国へと配流されます。
淡路島でも先帝を担ごうとする勢力も存在し、765年に逃亡を図るが失敗。翌日に崩御したと伝わります(実際には暗殺されたか)。わずか33歳のことでした。
美しく立派な陵!『淳仁天皇 淡路陵』
奈良時代の歴史に興味がある私たちとしては、淡路島で悲劇的な最期を迎えた淳仁天皇の陵『淳仁天皇 淡路陵』へは、一度お参りしたいとずっと思っていました。
ずっと「淡路廃帝」という呼び方をされ、明治時代になってようやく淳仁天皇という漢風諡号が付けられた、つまり歴代の天皇として認められていなかったケースも多かったということなので、その御陵は小さく簡素なものなのかも……などと想像していたのですが、想像以上に立派で手厚くて、ちょっとホッとしました 笑


マップを観てみるとわかりますが、ここは大きな淡路島の中でも内陸部分で、かなり南の四国側となります。今でこそ大きな道路が通って開けていますが、奈良時代のこの場所は都からも遠く離れたさぞ寂しい土地だったでしょう。

ドラマや小説などでは、権力者・藤原仲麻呂の傀儡として軽んじられがちな淳仁天皇ですが、きっといろいろと想うところはあったでしょう。権力争いに勝ち抜いて、かといって自分の思うようには動けなくて、雲行きが怪しくなってきて、失脚して命を落として。あれこれと想いを巡らせたくなる場所でした。
淳仁天皇陵(淡路陵)
参考サイト | 淳仁天皇 淡路陵│天皇陵│宮内庁 淳仁天皇陵・当麻陵 | 淡路島観光ガイド 淳仁天皇 – Wikipedia |
住所 | 兵庫県南あわじ市賀集 |
駐車場 | あり |
アクセス | 神戸淡路鳴門自動車道「西淡三原IC」から車で約20分 |
淳仁天皇が過ごした地『史跡 野辺乃宮』
『史跡 野辺乃宮』は、淡路島へ配流された淳仁天皇が過ごした地と言われ、現在は淳仁天皇を祭神として祀る宮となっています。

野辺の宮
野辺の宮は、淳仁天皇を祭神として祀ってあるお宮です。
天平宝字八年(七六四年)政治の争いの犠牲となって皇位を廃された淳仁天皇は、ここ淡路島に島流しにされたと伝えられています。
野辺の宮から約百メートル東方の「丘の松」が仮埋葬の地と伝えられ、明治三年に賀集の天王の森が御陵と定められた後、明治四十一年にはここが「御陵参考地」とされました。
境内の片隅には、天皇がおなぐさめのために琵琶を弾かれたという伝説にちなんだ「琵琶の辻の碑」が建てられています。現地の説明より




史跡 野辺乃宮
参考サイト | 野辺の宮 丘の松 事代主神社 – sogensyookuのブログ |
住所 | 兵庫県南あわじ市市十一ケ所333 |
駐車場 | あり |
アクセス | 神戸淡路鳴門自動車道「西淡三原IC」から車で約22分 |