新元号「令和」の由来となった万葉集「梅花の歌」序と32首
2019年4月1日、新しい元号が「令和(れいわ)」となることが発表されました。長かった「平成」が終わり、5月1日から令和元年が始まります。
日本における「元号」(Wikipedia)の使用は、645年の「大化」に始まりました。その命名に際しては、伝統的に中国の書(漢籍)からとられてきましたが、令和については「万葉集に由来する」と明言され、私のような万葉集に親しんでいる者としては嬉しい限りです!
ここでは簡単に、令和の由来となった「梅花の歌」の序とその内容などを、できるだけ分かりやすくご紹介します。
「梅花の歌」序の全文(現代語訳付き)
「梅花の歌」とは、九州の大宰府の長官として赴任していた「大伴旅人」(おおとものたびと)(Wikipedia)邸で、天平2年(※730年)1月13日に開かれた宴で詠まれた32首を指します。
万葉集には32首まとめて掲載されており、そこには漢文風のややお硬いイメージの序文がつけられています。全文を見てみましょう。
【梅花の歌三十二首 并せて序】
天平二年の正月の十三日に、師老(そちろう)の宅へあつまりて、宴会(うたげ)を申(の)ぶ。
時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。梅は鏡前(きやうぜん)の粉(ふん)を披(ひら)く。蘭(らん)は珮後(はいご)の香を薫らす。しかのみにあらず、曙(あした)の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて蓋(きぬがさ)を傾(かたぶ)く、夕の岫(くき)に霜結び、鶏はうすものに封(と)ぢられて林に迷ふ。庭には舞う新蝶(しんてふ)あり、空には帰る故雁(こがん)あり。
ここに、天の蓋(やね)にし地(つち)を坐(しきゐ)にし、膝を促(ちかづ)け觴(さかずき)を飛ばす。言(げん)を一室の裏に忘れ、衿(きん)を煙霞(えんか)の外に聞く。淡然(たんぜん)自らを放(ゆる)し、快然(くわいぜん)自ら足る。
もし翰苑(かんえん)にあらずは、何をもちてか情(なさけ)をのべむ。誌に落梅の篇を紀(しる)す、古今それ何ぞ異ならむ。よろしく園梅を賊(ふ)して、いささかに短詠(たんえい)を成すべし。
新元号の令和の元となったのは、「時に、初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぐ。」(意味:折しも、初春の佳き月で、気は清く澄みわたり風はやわらかにそよいでいる。)の部分です。
「令」は“良い”の意味であり、「和」の“やわらぐ”とあわせて、とてもやわらかな印象を受けますね。
ちなみに、序文の作者は、宴の主催者である「大伴旅人」説と、参加者の一人で「貧窮問答歌」を詠んだことでも知られる「山上憶良(やまのうえのおくら)」説などがあり、確定していないとか。
当時「梅」は中国から伝わったばかり
この梅花の宴は、大宰帥(だざいのそち。太宰府の長官)である大伴旅人邸に植わっていた梅の花を愛で、歌を詠みあおうというのが趣旨です。旅人の部下たちが集まり、その歌の内容からは現場の楽しそうな雰囲気が伝わってきます。
万葉集の歌が詠まれた奈良時代には、「梅」は中国から伝わってきたばかりで、とても珍しい植物でした。その当時、中国は文化の最先端であり、その国からもたらされた美しい植物である梅は、貴族たちの間でおおいに話題になりました。ちなみに、万葉集の中で、梅は「萩」に次いで多く歌われた植物です。
自邸の庭に梅が植わっているというのも、大いに自慢できることだったでしょうし、部下たちにとっても、トレンド最前線の「梅」の花を愛でながら宴会できるなんて、おそらくとても喜ばしいことだったでしょう。
奈良の都からは遠く離れた九州の太宰府ですが、大陸との窓口であり、最新の文化に真っ先に触れられる土地であったことも関係しています。
梅花の宴で主・大伴旅人が詠んだ歌
万葉集では、序文に続いて、梅花の宴に参加した32名の歌がずらりと並びます。
主催者である大伴旅人の歌は、8番目に登場します。
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
この歌の歌碑は、多くの万葉植物が植えられた「万葉の森」(橿原市南浦町)に建っています。すぐ隣には梅の木があり、開花時期には見事な光景が見られるでしょう
揮毫は、談山神社研書会の今西宗一さんです
大伴旅人(Wikipedia)は、万葉集に和歌78首が掲載されるなど、歌人として高い評価を受ける方で、万葉集の編纂者と目される大伴家持(Wikipedia)の父でもあります。
名門・大伴氏の長となりましたが、台頭してきた藤原氏に押され、大伴氏は勢いを失っていきます。728年ごろ、60歳を過ぎた旅人が太宰府へ赴任することになったのも、左大臣・長屋王の力を注ぐことを目的とした藤原四兄弟の策略だったのでは……という説もあります。
現代の60歳はまだまだ若い印象ですが、当時は相当な高齢です。そんな年になって奈良の都から遠く離れた九州へ左遷となり、さらにはすぐに奥さんまで亡くすなど不遇をかこち、忸怩たる思いもあったことでしょう。
また、歌人としては「酒を讃むるの歌」(13首)が有名です。お酒が大好きで、お酒を賛美する歌がずらりと並びます。
濁れる酒を 飲むべくあるらし
“没落する名門氏族の悲劇的なリーダー”と“お酒好きなおじさん”という、相反するようなイメージをを持つ大伴旅人。ぜひこの機会に注目してみてください!
「あをによし」の歌で有名な小野老も
なお、梅花の歌32首を詠み手の中には、他の歌が有名な人物も含まれています。
我が家(へ)の園(その)に ありこせぬかも
少弐小野大夫とは「小野老(おののおゆ)」のこと。有名な“あをによし”の歌を詠んだ人です。
にほふがごとく 今盛りなり
この歌は、小野老の太宰府赴任中に、奈良の都を思って詠まれました。華やかな奈良の春がぱっと思い浮かぶ名歌ですね。
ちなみに、大伴旅人は“長屋王派”でしたが、小野老は“藤原氏派”であり、対立する陣営に属していたとされています。太宰府の梅花の宴で同席し、歌を詠みあっているところを見るとのんびりと感じますが、いろんなせめぎ合いもあったのかもしれません。
「貧窮問答歌」の山上憶良の歌も
また、以下の歌を詠んだ筑前守山上大夫とは、「貧窮問答歌」で有名な「山上憶良(やまのうえのおくら)」(Wikipedia)です。
ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ
「貧窮問答歌」は、当時の庶民の困窮ぶり、里長の苛酷な税の取り立ての様子などをリアルに歌ったもので、教科書などにも掲載されました(長い歌なのでここでは紹介しません)。この他にも、子煩悩さがあふれるような歌なども遺していて、万葉歌人の中でも異彩を放つ人物です。
「梅花の歌」32首(現代語訳付き)
梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ
我が家(へ)の園(その)に ありこせぬかも
かづらにすべく なりにけらずや
ひとり見つつや 春日(はるひ)暮らさむ
梅の花にも ならましものを
かざしにしてな 今盛りなり
飲みての後(のち)は 散りぬともよし
天(あめ)より雪の 流れ来るかも
この城(き)の山に 雪は降りつつ
竹の林にうぐひす鳴くも
かづらにしつつ 遊び暮らさな
梅の花とを いかにか分かむ
鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に
いやめづらしき 梅の花かも
継ぎて咲くべく なりにてあらずや
絶ゆることなく 咲きわたるべし
君を思ふと 夜(よ)いも寝なくに
今日の間は 楽しくあるべし
梅をかざして 楽しく飲まめ
恋(こほ)しき春来るらし
今日の遊びに 相見つるかも
飽き足らぬ日は 今日にしありけり
我が家(へ)の園に 梅が花咲く
うぐひす鳴くも 春かたまけて
人の見るまで 梅の花散る
誰か浮かべし 酒坏(さかづき)の上(へ)に
我家(わぎへ)の園に 咲きて散る見ゆ
うぐひす鳴くも 散らまく惜しみ
遊ぶを見れば 都しぞ思ふ
ここだもまがふ 梅の花かも
散らずありこそ 思ふ子がため
いやなつかしき 梅の花かも
■参考にさせていただきました
大伴旅人 - Wikipedia
大伴家持 - Wikipedia
令和の典拠は本当に万葉集だけなのか? 中国古典まで遡れる新元号の由来 - Togetter
※万葉歌の表記・訳などは『新版 万葉集 一 (角川ソフィア文庫)』を参考にしています。