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【読書メモ】僧兵盛衰記 (読みなおす日本史)

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中世の日本の歴史の中で重要な役割を果たした「僧兵」。本書では、僧兵の誕生から最盛期の活動、高野山や熊野など全国の僧兵たちの存在、そして武家勢力に対抗できなくなっていって衰退していった様子などを丹念に解説しています。

中世の南都は僧兵が闊歩していました

『源平盛衰記』の中で、白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心にしたがわぬ者」と嘆いたセリフは有名です。

その主役は、主に南都北嶺の僧兵たち。南都(奈良)では、興福寺を筆頭に、東大寺の僧兵たちとの争いも頻発し、北嶺(比叡山)では、長らく最大の勢力を誇った延暦寺と、そこから別れた園城寺が対立を続け、幾度も堂塔が燃え落ちる事態となりました。

さらに、興福寺と延暦寺は事によっては協力関係となるものの、バチバチの抗争もしばしば発生しました。

直接的な衝突もありますが、大和の国にありながら藤原道長の時代に延暦寺の末寺となっていた多武峰(とうのみね)の妙楽寺(現在の談山神社)は、幾度も興福寺の僧兵に襲撃されます。またその逆に、京都にあった興福寺の末寺・清水寺も、延暦寺の僧兵たちに攻められたりしています。ヤバいくらいの暴れっぷりです。

僧兵の活動の最盛期は、院政のころ。白河・鳥羽・後白河の三上皇が、出家して法皇となり、盛んに造寺・造仏を行っていた時代です。自分たちの主張を通すためには神木などを担ぎ出しては強訴に及ぶなど、社会を大きく混乱させる存在であったかのような印象を受ける僧兵たちですが、朝廷との関わりは深く、院と幕府との争いの際には僧兵に援助を求められることも多かったそうです。

僧兵たちの活動は、宗教的な思想や思惑が根本にありました。そこが武士たちとの最大の違いで、だからこそ数百年にわたって続いた(武家だったらとっくに取り潰されていた)ということもあるでしょうし、だからこそ限界もあったんでしょう。その栄枯盛衰を追っていくと、寂しい感すらあります。

平安~戦国時代までの中世は、僧兵の存在抜きでは語れないでしょう。私のような奈良の人間としては、その当時の大和の様子をイメージするのに欠かせない存在です。ちなみに、最盛期には興福寺に二千人、東大寺に千人の僧兵がいたとか。とんでもない一大勢力ですね。

歴史書には単なる暴れん坊の “悪僧” として描かれがちな僧兵たち。その行動を追うことで中世が少しだけくっきりと見えてきたような気がします。

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