日本考古学の原点・大森貝塚 (シリーズ「遺跡を学ぶ」)
日本考古学の出発点「大森貝塚」発見の経緯などを解説。いま改めて読むと興味深いですね
明治維新から間もない日本の考古学の出発点となった「大森貝塚」。その発掘の経緯や歴史などを分かりやすく解説した、シリーズ「遺跡を学ぶ」の一冊です。残念ながら現地へは行ったことがありませんが、モースによって貝塚が発見されたエピソードは教科書にも載っていましたし、大人になってから改めて調べてみると面白いですね!
説明文:「いまから一三〇年前の明治一〇年六月、来日すぐのモースは、汽車で横浜から東京に向かう途中、大森停車場をすぎたところで線路際に露出した貝塚を発見した。―こうして始まる日本最初の考古学的発掘と刊行された報告書の内容と特徴をわかりやすく解説する。」
1877年に来日したモースは、考古学者ではなく動物学者(生物学者)で、貝の研究が専門でした。3ヶ月で帰国する予定で来日したところ、開設して2ヶ月だった東京大学で教鞭をとることを依頼され、日本に長居することになったのだそうです。
日本へ到着してすぐに乗った電車の車窓から、大森駅付近の線路脇の切り通しに大量の貝が散らばっているのを発見し、すぐにその事実を書き留めていますが、その場所を調査できたのはそれから3ヶ月後でした。その間に、ハインリッヒ・フィリップ・フォン・シーボルト(あのシーボルトの息子)とナウマン博士が、大森貝塚を調査していた可能性もあるのだそうです。
モースの調査結果は、詳細なメモとイラストを用い、貝類の分類はもちろん、土器なども記録しており、現代の視点では決して完璧なものとは言えないまでも、かなり詳細に調査したことが分かっています。また、動物の骨と一緒に出土した人骨が一体分に満たなかったり、一部欠けていたりしたため、アイヌ以前の食人風習があった民族によるものと予想し、発表しています。しかし、これは完全な誤りで、後に完全に否定されているそうです。
そんな大森貝塚には、約270mほど離れて2つの貝塚碑が建っているのだとか。いずれも戦前のもので、発掘地点が一部曖昧になってしまったため、こうした混乱がみられるのだそうです。明治時代のことなんて、詳細な記録が残っていそうなものですが、まだ混乱の時代だったのかもしれません。後の関東大震災で資料が焼失してしまったケースも多かったでしょう。
考古学的というよりも、歴史的な興味が湧く内容です。昔は教科書で読まされたつまらないエピソードも、改めて知ってみるととても興味深いですね。興味のある方はぜひ!