古事記 不思議な1300年史
秘密の書・日本書紀の副読本・国家神道の聖典。古事記の読まれ方を巡る良書です!
2012年で編纂1300年を迎える「古事記」。神話と歴史を伝える日本最古の書として、今では誰もがその名前を知るようになりましたが、1300年の歴史を紐解いていくと、決してずっとそんな扱いを受けてきた訳ではなかったようです。そんな古事記の各時代ごとの読まれ方について分かりやすく概略した内容で、これが面白い!古事記編纂1300年を記念して奈良県が選んだ「古事記出版大賞」にて、「稗田阿礼賞」を受賞しただけのことはありますね。
説明文:「誰が古事記を読んだのか。『日本書紀』との違いは?本居宣長以前は誰も知らなかった?皇国史観のもとで間違って理解されていた?―謎に包まれた、その歴史に迫る。」
日本の国の成り立ちから語り起こす古事記は、1300年前からずっとメジャーな史書として読み継がれてきたようなイメージがありますが、決してそんなことはありません。
明治維新の後、国家神道の聖典として扱われたため、戦後は軍国主義の元凶のように扱われ、教育現場から排除されてきたことは有名です。その基本となったのは、江戸時代中期に本居宣長が著した「古事記伝」。さらに遡ると、古事記の原典をそのまま解釈するのではなく、独自の見解を付加して中世神話というような独自の(=勝手な)解釈がされていたとか。さらに遡ると、日本の正史を伝える「日本書紀」の陰に隠れて、真っ当な史書とではなく、ただの参考文献扱いをされていた時代が続いていたそうです。
本書では、古代から現代までの古事記の扱われ方の変遷が見られ、その時代ごとに大きな違いがあることが分かります。今私たちが当然と思い込んでいる歴史観は、決して長く続いたものではなかったことが思い知らされますね。
平安時代には、古事記は日本書紀を理解するためのサブテキストのような扱いを受け、中世になると、一般人はもちろん、貴族や神官の目にも触れない秘書となっていたとか。伊勢神宮でも、外部への持ち出しは固く禁じられていたのはもちろん、禰宜たちでも60歳未満は閲覧できなかった時代もあったそうです(伊勢神宮の内宮と外宮の争いが絶えなかった混乱の時代でもありました)。
しかし、江戸時代になると印刷技術が発達し、古事記も一般に出回るようになります。古事記が刊行されたのが1644年のこと。本居宣長は、18世紀に京都の書肆(しょし。本屋さんのようなもの)で、現代の私たちと同様に古事記を購入して読んだのだとか。また、日本中が国家神道一辺倒だった昭和初期にも、意外と当時の人々は古事記のことは知らなかったそうです。当時の官吏採用試験でも神武天皇の東征を全く説明できなかったものがいたことなどが紹介されています。
1300年の歴史を俯瞰していく作業は、とても刺激的で新鮮でした。テーマがテーマですから誰にでも勧められるような内容ではありませんが、古事記の大まかな内容を理解した上でぜひ読んでみて欲しいと思います。
<気になったところをメモ代わりに>
●中世の神仏習合の時代にあっても、伊勢神宮では仏教はタブーとされ、僧侶は二の鳥居までしか入れなかった。西行法師の有名な歌「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」も、それを踏まえた上だとニュアンスが変わってきますね
●本居宣長は、近代的な文献実証を行った方だと思われているが、古事記本文から離れて自己流に神話を読み替えることも多かった。平安時代以降の「中世日本紀」(読み手が新たな解釈を付け加えるのが普通だった)に近かった。
●本居宣長の弟子を名乗った平田篤胤。「世界中の神話は全て日本の神話の断片や変形したものだ」(インドの阿修羅王はスサノヲとオホクニヌシの神話が混合したもの、など)といった説を唱えた。彼は出雲のオホクニヌシを死後の魂を管理する幽冥界の神と解釈し、現代の出雲観に大きな影響を与えた。
●明治時代に来日したイギリス人チェンバレンによって、古事記の英訳版が発売に。それを読んで来日したのがラフカディオ・ハーン(小泉八雲)。来日当時はこの両者は親しくしていたが、現代科学的に(ネズミがしゃべるのはおかしい、など)解釈するチェンバレンと、出雲大社に(平田篤胤的な)死後を司る神の神殿のイメージを感じた小泉八雲は、後に疎遠になっていったとか。