柿本人麻呂ゆかりの『歌塚』と『柿本寺跡』@天理市
奈良旅手帖の作者さんと「奈良の渋いところツアー」として、まずは天理市にある、万葉歌人・柿本人麻呂ゆかりの『柿本寺跡』へ行ってきました。柿本人麻呂の『歌塚』、隣接する『和爾下神社』も合わせてお詣りしてきましたが、色んな意味で不思議な場所でした。
歌聖ゆかりの土地はやや奇妙な雰囲気に
天理市櫟本(いちのもと)にある古社『和爾下神社』と、その境内にある『柿本寺跡と歌塚』。ほぼ隣接する形でありますから、合わせて周れます。
柿本人麻呂(または人麿)(Wikipedia)とは、飛鳥時代の歌人で、後に山部赤人とともに「歌聖」と称され、三十六歌仙の一人とされた人物です。その生涯は謎に包まれていますが、高らかに天皇を賛美する歌、深い恋愛の歌などで知られています。
過ぎにし君が 形見とぞ来し
かへり見すれば 月かたぶきぬ
草壁皇子が逝去したのち、その息子の軽皇子(後の文武天皇)が、阿騎野の地で遊猟した際に、付き従った柿本人麻呂が亡き父君を偲びながら詠った長歌につけられた、四首の反歌のうちの二首。特に後者は、万葉集に多数の歌を遺した彼の作品の中でも、代表作と言われるほど有名です。
そんな柿本人麻呂の晩年は、官人として全国を転々とし石見国で亡くなったと考えられています。天理市にある柿本氏の氏寺であった『柿本寺(しほんじ)跡』には、人麿の遺骨(または遺髪とも)が葬られた『歌塚』が立ち、今でも歌聖の遺徳を偲ぶ人々が参詣しています。
このあたりにはかって、柿本寺という寺がありました。この寺は名前の通り柿本氏の氏寺で、ここに柿本人麻呂の遺骨を葬ったのが今の歌塚だといわれています。寺跡には今も礎石の一分が残っており、奈良時代の古瓦が採取されています。(中略)
室町時代頃には現在の櫟本小学校西側の地に移転し、江戸時代には額装が多く出て和歌や茶の湯に親しみました。明治時代の初め頃に廃寺となりましたが、南北朝時代前後に描かれた『柿本人宮曼荼羅』ほかの寺宝が今に残されています。
なお、今の歌塚の碑は享保17(1732)年に森本宗範や柿本寺の僧らによって建立されたものです。
柿本寺跡の説明文から一部抜粋
柿本寺跡はそれなりに整備されていますが、現在の歌塚の周りは公園になっていて、奇妙な蛙の石像や公園遊具などがある、ちょっと妙な場所になってしまっていました。それ自体は面白いのですが、風情という点ではかなり残念な印象ですね。
天理市櫟本町にある『歌塚』と『柿本寺跡』。「歌聖」と称される柿本人麻呂ゆかりの土地です。和爾下神社に隣接している静かな場所ですが、歌塚のあたりは公園になっていました
この一帯は、『柿本寺跡』になります。読み方は「しほんじあと」。柿本氏の氏寺で、和爾下神社の神宮寺だったようです。なお、この説明では『歌塚』には柿本人麻呂の「遺骨」を葬ったとありますが、他の資料では「遺髪」とされているものを見かけます
これが柿本人麻呂を祀る『歌塚』です。「歌神 柿本人麻呂公」という赤いのぼりが周りに立っています。1732年に建てられた碑で、ここに柿本人麻呂の遺骨(または遺髪)が弔われています。色んなモニュメントや、公園遊具などがあって、残念ながら、それほど風情のある場所ではありません
歌塚のすぐ横には、柿本人麻呂の石像もあります。歌聖の偉大なイメージからか、翁顔に作られています。ちゃんと花が手向けられていました
柿本人麻呂像を見つめる、多数の蛙たち。カエルがモチーフの石像が多数設置されていましたが、人麻呂と蛙の関連性がさっぱり分からないのが残念…
こんな蛙がいたり、大きな不動明王の石像があったり。石碑には「生き蛙 無事蛙 使った金もまた蛙」という句が。のぼりには「人麿の 御霊六蛙(みたまむかえる) 蛙かな 詰まった詩歌も よみ蛙」とありましたので、短歌愛好家の間では、蛙は何らかの意味を持つのかもしれません
歌塚の裏側には、こんな脱力系の公園遊具が。この角度では分かりづらいですが、手前の(おそらく)ラッコの邪悪さが際立っていました(笑)
歌塚に隣接して、手描き感あふれる「大和国柿本寺跡」の看板があります。それほど規模は大きくありませんが、礎石なども見られ、廃寺跡らしい姿が保たれています
大きな岩は、4~5世紀の石室の天井岩だとか。無造作に置かれていますが、とても貴重なものでしょう
「旧柿本寺跡の整備を成して」というタイトルの貼り紙。平成15年、地元の有岡努さんという方が、それまで荒れ放題だった柿本寺跡を、個人で手作業で整備し、それ以来、近隣の方や見学者の方から感謝の言葉をもらっている、というもの。心から感謝です!
重文建築がある『和爾下神社』も
歌塚などは、『和爾下神社(わにしたじんじゃ)』の境内にあります。796年創建と伝わる古社で、本殿が国の重要文化財に指定されています。
神護景雲三年(796)東大寺領の櫟庄へ水を引くため高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直ぐに作らせたので、この森を治道の森といい、宮を治道社といった。和爾下神社古墳の上に祀られた神社で、櫟本の地方にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本鎮守の神社である。この治道社の(春道社とも書く)祭神は素盞嗚命の本地が牛頭天王であるので、天王社ともいわれ、ここに建てられた柿本寺との関係で柿本上社ともいわれた。明治初年に延喜式内の和爾下神社がこれに当たると考証されて社名を和爾下神社と定めた。
今の社殿は、三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式を備え、古建築として重要文化財に指定されている。
和爾下神社の説明看板より
この日は全く人気もなく、セミの鳴き声が響くのみ。静かなものでした。参道には、日本書紀の武烈天皇の巻の「影媛あわれ」のエピソードの石碑などもありましたので、古代史好きな方もぜひ訪れてみてください。
『和爾下神社』の石段。769年創建の古社ですが、人気もなくひっそりとしていました
和爾下神社の説明書き。祭神は、素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命の三柱、。例祭は、7月14日に祗園祭、10月14日に氏神祭礼が行われます
和爾下神社の拝殿。どっしりと落ち着いた建物です。蝉の声だけが響いていました
よく見えませんでしたが、これが国の重要文化財に指定されている「本殿」です。「三間社流れ造り、桧皮葺一間向拝付で桃山時代の様式」とのこと
「和爾下神社古墳」の説明。和爾下神社自体が古墳の上に立っています。前方後円墳で、東大寺山古墳群を構成しています。4世紀末~5世紀初頭のもので、大和政権に参画した、この一帯を拠点とした和爾氏のものと考えられています
和爾下神社の参道には、「影媛あわれ」の石碑とその解説も。日本書紀の武烈天皇の巻で語られる有名なエピソードです。影媛が、交際していた平群の鮪(へぐりのしび)が、太子(後の武烈天皇)の命で殺害されたことを悲しみ、布留から乃楽山行って弔いをしました。この辺りがその舞台となった場所のようです
■和爾下神社(わにしたじんじゃ)
HP: 参考サイト(天理市HP)
住所: 奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490
電話: 0743-65-0418
御祭神: 素盞嗚命、大己貴命、稲田姫命
創建: 769年
アクセス: JR桜井線(万葉まほろば線)「櫟本駅」から徒歩15分ほど
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