2011-02-20

山の辺の道『海石榴市』周辺を歩いてみました@桜井市

山の辺の道『海石榴市』周辺を歩いてみました@桜井市

万葉歌にも詠まれた古代の市場があった場所『海石榴市(つばいち)』を歩いてきました。奈良県桜井市、山の辺の道の南側にあたり、華やかだった当時を思い起こさせるようなものはありません。しかし、海石榴市を詠った万葉歌碑を見たり、『海石榴市観音堂』『金屋の石仏』『仏教伝来の地』など、意外と(地味ながらも)見どころが多い場所でした。


若い男女が歌を詠み交わす「歌垣」の舞台

奈良県桜井市の「海石榴市(つばいち)」。山の辺の道を大神神社から1kmほど南へ下ったところにある地名で、現在は静かな住宅街になっています。

しかし、万葉の時代の海石榴市は、国内有数の交易の中心地でした。水運の拠点ともなっていた大和川(初瀬川)にも近く、当時の幹線道路である山ノ辺の道・初瀬街道・磐余の道・竹ノ内街道が交錯する、物流の中心地でした。市場がたち、常に人の集まる賑やかな場所だったようです。

また、若い男女が集まって、互いに歌を詠み交わす「歌垣(うたがき)」という遊びの舞台でもありました。今では想像が付きにくいですが、「歌を詠み合う合コン」のような性格のものだったとか。その場所に立って想像してみると面白いですね。


海石榴市周辺@桜井市-01

「海石榴市(つばいち)」の説明文。「ここ金屋のあたりは古代の市場 海石榴市のあったところです。そのころは三輪・石上を経て奈良への山ノ辺の道・初瀬への初瀬街道・飛鳥地方への磐余の道・大阪河内和泉から竹ノ内街道などの道がここに集まり、また大阪難波からの舟の便もあり大いににぎわいました。春や秋の頃には若い男女が集まって互いに歌を詠み交わし遊んだ歌垣(うたがき)は有名です。後には伊勢・長谷詣でが盛んになるにつれて宿場町として栄えました。」

海石榴市周辺@桜井市-02
説明看板と一緒に、海石榴市を詠んだ有名な万葉歌「紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十(やそ)のちまたに 逢へる子や誰れ」の歌碑があります

海石榴市観音@桜井市-06
海石榴市観音堂の前にあった、この辺りのマップ。『金屋の石仏』『仏教伝来の地碑』などはすぐ近くにあり、軽めのお散歩くらいの距離です


●参考サイト
奈良歴史漫歩No.061 海石榴市
海石榴市はどこにあったか?


万葉歌「紫は 灰さすものぞ 海石榴市の…」

紫は 灰さすものぞ 海石榴市(つばきち)の
八十(やそ)のちまたに 逢へる子や誰れ
作者不詳 万葉集 巻第12-3101
紫染めには椿の灰を加えるもの。その海石榴市(つばいち)の八十の巷で出逢った子、あなたはいったいどこの誰ですか。

海石榴市を詠んだ最も有名な歌で、歌碑も建てられていました。当時の発音では、海石榴市は「つばきち」となるようです。

「紫は 灰さすものぞ」は、椿(つばき)の言葉を引き出すもので、意味はありません。「八十のちまた」とは「たくさんの別れ道」という意味。賑やかな市場で出会った女性の素性と名前を尋ねていますが、当時の風習では、男性が女性の名前を聞く=求婚でした。名前を聞かれてそれに答えたら、それだけでプロポーズを受け入れたことになります。

この歌は「問答歌」になっていて、以下の歌が続きます。

たらちねの 母が呼ぶ名を 申(まお)さめど
道行く人を 誰と知りてか
作者不詳 万葉集 巻第12-3102
母さんの呼ぶたいせつな私の名を申してもよいのだけれど、道の行きずりに出逢ったお方を、どこのどなたと知って申し上げたらよいのでしょうか。

行きずりに急に名前を尋ねられて(求婚されて)、戸惑う気持ちが歌われています。現代人から見たら驚くような風習ですが、万葉人はこんな恋の仕方をしていたそうです。ファンキーですよね(笑)

●参考サイト
虚見津 > 紫は 灰さすものそ


大事に祀られた石仏『海石榴市観音』

海石榴市の説明がある交差点から、細い道を入っっていくと『海石榴市観音堂』があります。金屋の集落の裏手で、人の家の裏庭を歩いているような細い道を通りますが、ちゃんと駐車場らしきスペースもあり、観音堂も最近建て直されたばかりの真新しいものでした。地域の方に大切に祀られていることが伝わってきます。

こちらにいらっしゃるのは、像高「二尺三寸」という二体の石仏です。ガラス越しに拝見するので、個々のお顔は良く見えませんが、向かって右手が十一面観音さま、左手が聖観音さま。

「元亀2年(1571年)」の銘があり、右手に錫杖を、左手に水瓶を持つ姿は、ここから初瀬川の上流にあたる長谷寺のご本尊と同じ形なのだとか。以前は長谷寺の近くに祀られていたものが、川の氾濫で流れ着いたと伝わっているそうです。


海石榴市観音@桜井市-01

金屋の集落の裏手にある『海石榴市観音』。近くに駐車場らしきものはありましたが、道が極端に細いので注意が必要です。民家の間にひっそりと建っていました

海石榴市観音@桜井市-02
お堂は建て替えられたばかりで、まだ真新しいもの。すぐ前にはベンチとトイレも作ってありました。山の辺の道の散策途中で立ち寄るのにちょうどいいですね

海石榴市観音@桜井市-04
海石榴市観音堂の内部。内陣には入れませんでしたので、ガラス越しに拝見しました。向かって右手が十一面観音さま、左手が聖観音さまになるそうです

海石榴市観音@桜井市-05
右手の十一面観音さまには、「元亀2年(1571年)」の銘があるそうです。かなり見づらいですが、右手に錫杖を、左手に水瓶を持つ姿は、初瀬の長谷寺のご本尊と同じです。このため、以前は長谷寺の近くに祀られていたもので、初瀬川の氾濫の際にこの地へ流れ着いたと伝わっているそうです


重厚な二体の仏さま『金屋の石仏(重文)』

海石榴市観音堂から歩いて数分のところには、国の重要文化財に指定されている二体の石仏『金屋の石仏』があります。

かなりひなびた場所にある石仏ですから、路傍にひっそりと建っているのかと思っていたのですが、とんでもありません。海石榴市観音堂もそうでしたが、金屋の石仏も鉄筋でできた立派な収蔵庫に収められていました!そんな近代的な建物の中に、こんな大きな石仏が、それも板状の粘板岩を掘った物があると、そのギャップが面白いですね。

高さ2.2mもある大きな石仏ですから、かなり迫力があります。現地ではやや薄暗くて見づらいのですが、自宅に戻ってから写真を見てみると、彫りの細かさに驚きました。貞観時代(9世紀ごろ。平安時代前期)ごろに作られたかもしれないというのですから、驚きですね。


金屋の石仏@桜井市-01

『海石榴市観音堂』から、集落をぐるりと迂回して『金屋の石仏』へ向かいます。歩いても数分の距離です。すぐ真向かいに「喜多美術館」がありますが、車が入れないような細い道になりますのでお気をつけください

金屋の石仏@桜井市-02
『金屋の石仏』は、こんな立派な収蔵庫の中に安置されていました。説明文には「この中におさめられた二体の石仏は、右が釈迦、左が弥勒と推定されています。高さ2.2m、幅約80cmの二枚の粘板岩に浮彫りされたこの仏像は、古くは貞観時代、新らしくても鎌倉時代のものとされ、重要文化財の指定をうけています。右側の赤茶色の石は、石棺の蓋であろうと思われます。」とありました

金屋の石仏@桜井市-03
これが重要文化財の『金屋の石仏』のお姿です。説明文には「右が釈迦、左が弥勒」とありました(向かって、だと思います)。収蔵庫の格子の間から拝見します

金屋の石仏@桜井市-04
お釈迦さま。印を結ぶ手、幾重にも重なる衣紋のひだ、浮き出るように見える光背など、素晴らしいですね。ただし、現地ではそれほど細かいところまでは見えません。改めて写真で見直してみて精緻さに驚きました!

金屋の石仏@桜井市-05
こちらは弥勒菩薩さま。立体的に浮き出すように見えます

金屋の石仏@桜井市-06
収蔵庫の床下には、無造作に石棺のふたが置かれていました。まさに「無造作」としか言いようがありません(笑)

●参考サイト
金屋の石仏


大和川には『仏教伝来の地』もあります!

金屋の集落から数百メートル南へ向かった川沿いに『仏教伝来の地』という場所があります。

飛鳥に都があった当時は、大和川(初瀬川)のこの場所は、難波からの舟運の終着地点で、海外使節団が上陸する場所でした。日本書紀には、欽明天皇の時代に、百済の聖明王から釈迦仏金銅像などが贈られたとあり、使節団がここから上陸したと考えられているため「仏教伝来の地」と名乗っているのだそうです。


仏教伝来の地@桜井市-01

大和川(初瀬川)の近くに建っていた、天保十二年(1842年)の銘がある道しるべ。「左 いせ はせ」「右 なら 三輪」と書いてあると思われます。さすがは交通の要所「八十のちまた」ですね!

仏教伝来の地@桜井市-02
大和川の川沿いに、「仏教伝来の地」の大きな石碑があります。こんな場所があるってご存知でしたか?

仏教伝来の地@桜井市-03
「仏教伝来の地」についての説明看板。この地は、難波津から大和川を遡行してきた舟運の終着地点で、海外使節団が上陸する場所でした。欽明天皇の時代に、百済の聖明王から釈迦仏金銅像などが贈られたことが日本書紀に記されていますが、その百済の使節もここから上陸したと考えられているため「仏教伝来の地」と名乗っているのだそうです

仏教伝来の地@桜井市-04
現在の仏教伝来の地の様子。水かさも低く、とても舟が通れるような川ではありません。ここが大和朝廷と海外との玄関口になっていたと言われても、簡単には想像できませんね

仏教伝来の地@桜井市-05
川原は整備されていて、こんなパネルなどが展示されています。馬をモチーフにした像なども見えました。これは「遣随使・小野妹子が、随の使者・裴世清を伴って帰国して飛鳥の京へ入る際に、大和朝廷は飾り馬75頭を仕立て、海石榴市の路上で額田部比羅夫に盛大に迎えさせた」という故事によるものです


仏教伝来の地@桜井市-06

仏教伝来の地@桜井市-07

仏教伝来の地@桜井市-08

仏教伝来の地@桜井市-09



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※実際に行ったのは「2011年2月2日」でした






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